プロフェッショナリズムを忘れた教師たちは,何を教えるのか?
- By: Kyousaijuku
- カテゴリー: 教育論

【レトリカ教採学院】ブログDE教採
【レトリカ・ブログ】
このブログを書いている現在時刻は,2020年11月4日(水)午前10時40分です。
アメリカ時間では,2020年11月3日(火)の夜です。
アメリカ大統領選挙の開票の夜です。
私は,午前中は,ずっと,アメリカの開票速報を見ています。
私(河野)は,日本語と英語は,ほぼバイリンガルなので,自宅では,概ね,英語で過ごしています。
インターネットでの検索やリサーチも,ほとんど英語サイト,映画やドラマも,ほぼ,英語のみで見ています。
自宅に帰れば,英語だけで生活するというのが,河野の生活スタイルで,この生活スタイルは,ほぼ,30年間,続けています。
私は,電話が嫌いで,滅多に電話には出ませんが,仮に,私が自宅にいるときに,電話がかかってきて,私が出たとしたら,2回に1回くらいは,私は,”Hello, Christopher speaking.” と答えることでしょう(微笑)。
自宅にいるときは,瞬時の反応は,英語脳になっているのです。
さて,以上のことを言った上なのですが,私の教員免許状は,中高の国語です。
別に,英語かぶれで,アメリカかぶれということではありません。
万葉集も古事記も源氏物語も古今和歌集も全巻しっかりと読んでいますし,日本語学も,修士課程まで徹底的に研究しました。
これほど英語で生活しているのに,なぜ,英語教師ではなく,国語教師になったかというと,私の脳の中では,日本語の方が,若干,英語より,優れているようなので,母語とも言える日本語,つまりは,国語の教師の方が,自信が持てるかなと考えたからです。
私は,プロフェッショナリズムは,徹底して追及するので,中途半端なことが嫌いなのです。
だから,日本語と英語は,ほとんど同じように脳内で働いていても,少しでも日本語が優勢だと思うと,日本語(国語)を,自分の専攻にするくらい,プロフェッショナリズムが強いのです。
最近の教師志望者のプロフェッショナリズムは,どうでしょうか?
英語の教師志望者は,英語がものすごく得意でしょうか?
国語の教師志望者は,日本語学,日本文学などなどに,プロフェッショナルな知見があるでしょうか?
数学の教師志望者は,数学に徹底した才能を示すでしょうか?
恐らく,音楽や美術,体育の教師志望者は,実技教科ということもあり,かなりのプロフェッショナリズムや実績を掲げて,教師を志望しています。
ところが,国語・社会・数学・理科・英語といったアカデミックな教科の教師志望者の中で,プロフェッショナルと言える能力・学歴・実績を持っている人が,何割くらいいるでしょうか?
英語教師志望者と言いながら,例えば,990点満点のTOEICで,400点台,500点台の人もたくさんいます。
私(河野)は,英語教師志望者であれば,TOEICなら,900点以上で,当たり前だと考えていて,受講生にも,そのように激励しています。
国語教師志望者なら,主要文学,主要語学書などを読んでいるのは,当たり前で,網羅的な国語・国文学の知識を持ったうえで,自分が特に好きな専門分野を持つべきだと考えています。
はっきり言って,最近の教師志望者のかなりの割合は,学問的なプロフェッショナリズムがなさ過ぎです。
英語もできないのに,英語教師を目指す。
国語も大して理解していないのに,国語教師を目指す。
数学も,理科も,社会科も,専門的な知識や能力もあまりないのに,その教科の教師を目指す。
そんな人が,多すぎます。
これは,おそらく,日本の教員免許制度が,大学での授与で,専門教科のアカデミック・クオリティのチェックがほとんどなされていないという問題があるのでしょう。
もちろん,学問があるだけで,教師になれるわけではありません。
でも,学問ができなければ,教師にはなれません。
英語が話せるだけで,英語教師にはなれません。
でも,英語が話せなければ,英語教師にはなれません。
ここでも,必要条件と十分条件の詭弁によって,専門性やプロフェッショナリズムが,意図的に軽視されています。
「学問だけでは教師になれない」という命題は,「学問がなくても教師になれる」という命題を意味しません。
「英語が話せるだけでは英語教師にはなれない」という命題は,「英語教師は英語を話せなくてもよい」という命題を意味しません。
学問ができるとか,英語が話せるというのは,教師や英語教師になる十分条件ではありませんが,必要条件であることは確かです。
全ての教師志望者にプロフェッショナリズムがないとは言いません。
でも,教師志望者のかなりの割合の人に,プロフェッショナリズム,専門のアカデミック・アビリティが書けていることは事実のようです。
そして,そういう人は,教師の専門性を,教科指導や,学問ではなく,生徒指導や授業の技法に置いています。
つまり,子供と関わり,子供と楽しく過ごすことに重点を置きます。
そうは言いながら,そのための,心理学(発達心理学・学習心理学)は,あまり深く学んでいなくて,要は,自己満足の子供との関わりばかりを強調します。
もし,仮に,教師志望者全員に,国家資格としての,教員免許状授与認定試験というものが存在したとして,そのようなテストを受験させたら,かなりの割合の人が,合格しないでしょう。
もはや,学校教師は,単なるベビーシッター(子供の世話役)のようになっていて,教科・学問を指導するという役割は軽視されているということでしょうか?
私は,そうであってほしくはないと考えています。
私は,毎日,英語で生活し,たくさんの本を読み,毎日,物理の勉強をし,数学の勉強をし,日米の最高裁の判例や選挙の結果を丹念に読み解いています。
私は,学問が好きで,国語,英語,数学,歴史,地理,政治,経済,音楽,美術などを,ほぼ毎日,勉強しています。
だからこそ,模擬授業などでも,どの教科の模擬授業でも,指導できます。
学問を忘れた教師志望者,プロフェッショナリズムを忘れた教師志望者に教えられる子供たちは,幸せでしょうか?
それとも,教師という仕事は,生活していくための,家族を養うための,単なるお金を稼ぐ仕事に過ぎないでしょうか?
私は,学問を忘れた教師,プロフェッショナリズムを忘れた教師にはなりたくありません。
皆さんは,どのように思われますか?
是非,皆さんの考えを,「河野正夫とトーク!」へ,LINEでお寄せください!
では,また明日!!
河野正夫