言説からの脱却は大事です!そうすれば,見えないものが,見えてきますよ!
- By: Kyousaijuku
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言説(ディスコース・ディスクール)という概念があります。
なかなか,説明しにくい概念ですが,ミシェル・フーコーの言葉を借りれば,
「特定の社会的・文化的な集団・諸関係に強く結びつき、それによって規定される、言語表現、ものの言い方」
となるでしょうか。
簡単な例で,説明してみます。
日本人は,お米のご飯が「主食」で,肉・魚・野菜といった料理を「副食(おかず)」だと認識しています。
つまり,おかずをそえて,ご飯を食べるのが,食事の基本的な形だと考えています。
食事には,主食と副食があるという枠組みも,言説の一つです。
言説は,人の考えを固定します。
言説は,人の思考と言語を支配します。
日本人は,「主食」+「副食」が食事だと思い込んでいるので,外国文化の食事にも,その枠組みを当てはめて考えます。
例えば,アメリカでは主食がパンとか,ドイツでは主食がジャガイモ,イタリアでは主食がパスタとか(笑)のようにです。
でも,アメリカやドイツ,イタリアなどの文化では,主食と副食という考え方そのものがありません。
確かに,食事にパンやジャガイモやパスタは出ますが,特に,主食という位置づけは,まったくありません。
アメリカ人やドイツ人,イタリア人は,パンやジャガイモやパスタに,肉・魚・野菜などの料理を「そえて」食べているという感覚は全くありません。
ちょうど日本でも,ファミレス(笑)などで,ステーキの単品をオーダーすると,ステーキの横に,豆やポテトも置かれているという感じです。
ステーキ皿の豆やポテトを,特に,主食だと考える日本人はいないでしょう。
日本人なら,さらに,ライスやパンをオーダーするでしょう。
主食と副食を明確に区別して,いわゆる米のご飯と,副食としてのおかずを区別するという習慣が,そもそも欧米にはありません。
おかずという言葉を,日本語で表わす意味で,英語に訳すことも困難です。
ですから,そもそも,日本文化以外で,主食は何?という問い自体が,おかしいのですよね。
でも,日本人は,日本の食文化のディスコースでしか,物事を見ることができないから,アメリカではパンが主食みたいな発想と発言しかできなくなってしまいます。
言説の支配力は,非常に強力です。
私たちは,言説によって,無意識のうちにがんじがらめに縛られています。
例えば,自然由来の成分は安心で,人工的につくった成分は危険だという言説があります。
食品や化粧品などの販売CMでも,「この商品は,すべて自然由来の成分からつくられていますから,安全です!」といった宣伝文句が使われます。
でも,本当に,自然由来の成分は安全でしょうか?
例えば,トリカブトの毒は,自然由来の成分ですが,人を殺してしまう毒です。
フグの毒も,コブラの毒も,毒キノコの毒も,すべて,自然由来の成分ですが,猛毒です。
自然由来のものだから安全,人工物だから危険という言説は,事実を正しく表していません。
自然由来のものでも,安全なものと危険なものがあるように,人工物も,安全なものも危険なものもあります。
言説に縛られ過ぎると,ステレオタイプで,紋切り型の発想と発言しかできなくなります。
例えば,ある教採受験者は,「健康に気を付けるため,野菜を中心に食べるようにしています。」と,面接で語っていました。
特に,この発言が悪いとか,間違っているわけではありませんが,
野菜=健康
肉=健康でない
というような図式が背後にあるとすれば,これもまた,一定の言説に囚われていることになります。
食事で重要なのは,栄養をバランスよく摂取することです。
肉ばかり食べていては不健康ですが,野菜だけを偏って食べていても,それも不健康です。
肉も野菜もバランスよく食べるのが,健康な食事ですよね。
でも,多くの人の中には,野菜は健康的という言説ができ上っていて,野菜さえ食べていれば,健康だと錯覚している人もいます。
言説の縛りを見破るのは,なかなか大変です。
言説は,文化によって固定されますから,文化が違えば,言説は大きく異なります。
例えば,中国の食文化(中国と言っても広いですが。。。)では,日本と同じように,ある程度,主食的な概念があります。
中国で,最も代表的な主食は,日本と同じく米ですが,中国では,炭水化物を中心にできているものは,すべて主食的に扱われます。
ですから,ラーメンは主食的であり,また,餃子も主食的であり,チャーハンも主食的です。
日本のラーメン定食は,ラーメンと餃子とミニチャーハンのセットなどがありますが,これは,中国人から見ると,ひっくり返るくらいの衝撃的な組み合わせです。
すべてが,主食的なものだからです。
ちょうど,日本の食文化で,白米のご飯とおにぎりと巻きずしの定食セットみたいなものです。
日本人は,白米のご飯を食べながら,おにぎりを食べるでしょうか?
おにぎりを食べながら,巻きずしを食べるでしょうか?
中国人にとっては,ラーメンと餃子とチャーハンのセットとは,そんな感じです。
これも,単なる習慣というよりは,何を主食と見なすかという言説であり,日本では,餃子は,副食,つまりは,おかずに見えてしまうので,ご飯のおかずになり得るのですよね。
また,言説は,なかなか,変わりません。
時代は速く流れても,言説の変化は,ゆっくりです。
昭和の旧態依然としたおっさんたちは,スマートフォン(携帯電話)を,いまだに,電話の一種だと思っています。
だから,児童生徒にスマートフォンを学校に持ち込ませないときの理由として,学校には公衆電話も学校の電話もあり,緊急時にはそれを使えばいいなどと言いがちです。
そもそも,最近のスマートフォン・ユーザーは,あまり,「電話」機能を使いません。
「電話」機能も,また,スマートフォンの中に入れている何十,何百のアプリの一つというった感覚ですよね。
でも,昭和のおっさんにとってみれば,スマートフォンは,まだまだ,「電話」なんですよね。
この辺りから,そもそも議論の土台が揃っていないのです。
日本は,学校掃除という,国際的に見れば,奇異な制度があります。
児童生徒が,教室や学校の各場所を掃除するという制度です。
日本の教育界では,これが当然という言説ですので,普通に,「自分が使うところは,自分で掃除する!」という原則を打ち立てて,指導しますよね。
でも,考えてみてください。
「自分が使うところは,自分で掃除する!」という方が,現代の日本社会においては,極めて稀で,小学校・中学校・高等学校くらいしかないんですよね。(大学では,学生が大学キャンパスを掃除しないですよね。)
コンビニで買い物をしたら,コンビニを掃除しますか?
映画館で映画を観たら,映画館を掃除しますか?
公衆トイレを使ったら,公衆トイレを掃除しますか?
パチンコ屋でパチンコをしたら,パチンコ屋を掃除しますか?
居酒屋で食事をしたら,居酒屋を掃除しますか?
ホテルに宿泊したら,ホテルを掃除しますか?
そうなんです。
現代の日本では,ほとんどの場所で,自分が使った場所を自分で掃除するなんてことはしないんです。
もしかしたら,自宅も,家族の誰かに掃除してもらっていて,自分では掃除しない人もいるかもしれません(笑)。
日本の中で,おそらく,唯一,学校だけが,「自分が使うところは,自分で掃除する!」という他の場所では,一切,応用できない理屈で,児童生徒に学校を掃除させています。
学校掃除という制度がいいかわるいかということではなく,「自分が使うところは,自分で掃除する!」という学校でしか通じない言説が,あまりにも強力に教師などの学校関係者を縛っていて,いま,このブログ記事で書いたように,「自分が使うところは,自分で掃除する!」というのは,学校以外では,存在し得ない考え方ということに,気づいてさえいないということが問題なのです。
人は,自分が囚われている言説の中にいる限り,安心します。
言説が取り払われると不安になります。
言説の中に住み続けるのが,心も休まるのかもしれません。
でも,言説は,人を囚人にします。
言説は,創造性を奪います。
言説は,改革と進化を遅らせます。
時々,自分が囚われている言説を見つめ直し,その言説から脱出してみるのもいいかもしれませんね。
では,また明日!!
河野正夫