人は学ばなければ、人になれません。
少なくとも、現在の人類が達している文明を享受できる人にはなれません。
ここが人と他の生き物との違いです。
他の生き物のほとんどは、成長は遺伝子に組み込まれています。
誕生して、月日が経てば、特に学ばなくても、その生き物に固有の行動は概ねできるようになります。
虎の子は虎になり、蛙の子は蛙になります。
ところが、人間は、生まれて、月日が経つだけでは、人間固有の行動ができるようにはなりません。
人は学ばなければ、人としての行動を身に付けることはできません。
言葉も社会性も道徳性も、すべて、学びによって獲得していきます。
また、人の場合、学びは一人では、なかなかできません。
かなり成長すれば、いわゆる独学ということもある程度可能かもしれませんが、幼いうちは、誰かに学ぶ必要があります。
最初は模倣から、次第に、意図的、構造的な学びになっていきます。
親から学び、教師から学ぶようになります。
この時、教えるという人の営みが重要になってきます。
人を人にするためには、人によって教えられる必要があります。
人を人にできるのは人だけ、とよく言われますが、まさにその通りです。
子供同士で学び合うこともできますが、基本的には、大人が子供を教えます。
最初は、親ですが、次第に、教師という専門職が、子供を教えます。
子供同士で学び合いをさせる場合も、教師がファシリテートします。
教えるという営みは、学ぶという営みと、表裏一体の関係にあります。
さらに、人の場合、学ぶ際も、教える際も、考えるという行為が必要です。
条件反射的な行動だけを学ぶ、あるいは、教えるというのは、人間の場合、そんなに多くはありません。
学ぶ側も、教える側も、常に考えながら、学び、教えます。
考えるという行為は、課題を発見し、情報を集め、解決法を見出し、答を探し出すという営みです。
学ぶ側にも、教える側にも、この考えるという行為が必要です。
そして、考えるためには、言葉(言語)が必要です。
人が学ぶとき、教えるとき、考えるとき、人は言葉を使います。
言葉なくては、学びは、複雑なものになり得ません。
言葉がなくては、教えることは、創造的なものになり得ません。
言葉(言語)は、学ぶこと、教えること、考えることの土台であり、道具であり、成果物でもあります。
人は学ぶときに、書物を読み、情報を集め、講義を聞き、議論し、発表することで、言葉を用います。
人は教えるときに、書物を読み、情報を集め、講義をし、議論させ、発表させることで、言葉を用います。
人は考えるときに、書物を読み、情報を集め、講義をし、議論をし、内省することで、言葉を用います。
このよう考えてみると、あらためて、言葉の重要性が見えてきます。
学ぶことには言葉が必要です。
教えることには言葉が必要です。
考えることには言葉が必要です。
特に、考える(思考する)ということは、まさに言語の営みと言えます。
私(河野)が、国語(日本語)を、自分の専門に選んだのも、こうした言葉の役割に魅力を感じたからです。
日本語と同じレベルでもう一つの言語が使えるようになりたいと、英語を単なる外国語としてではなく、学習言語、教授言語、思考言語として、使い続けてきたのも、言葉の力に魅せられたからです。
一般的に、言葉の力があればあるほど、学ぶ力も、教える力も、考える力も向上します。
特に教える側(教師)にとっては、言葉の力は、語る力に、典型的に現れます。
少し極端な言い方をすれば、語りが上手な教師は、教え上手な教師だと言えます。
言葉の力がある教師は、教える力もあります。
もちろん、そこには、教師の人間性やカリスマ性も必要です。
しかし、人間性もカリスマ性も多くの場合、言葉で作り出すことができます。
言葉は単なる目に見える形ではありません。
言葉は人の思考の土台であり、言葉は人の信念や信条の土台です。
言葉は人の頭の中、心の中で、人を人らしくします。
言葉の力を向上させることは、学ぶ力、教える力、考える力、語る力を向上させることです。
私も、教える者の一人として、これからも、言葉の力をさらに向上させていきたいと願っています。
では、また明日!!
河野正夫
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