教育とは何でしょうか?学ぶとはどういうことでしょうか?時間を持て余すことこそ、叡智を得る秘訣!!

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教育とは何でしょうか?

 

 

人が人を育てること。

 

子供を大人にすること。

 

人格を完成させること。

 

社会の形成者を育てること。

 

 

いろいろな考えがあるでしょう。

 

 

教育という漢字を単純に見れば、「教え」、「育てる」となります。

 

英語の”education”の語源は、ラテン語の”educare”(引き出す)だと言われています。

 

制度としての教育は、きっと、そういうことなのでしょう。

 

大人が子供の成長のために、なんらかの学びの機会を提供するというのは、何千年も前から、その時代なりにあったのでしょう。

 

 

でも、これは制度としての教育です。

 

現代でいえば、学校教育とか、社内教育とか、なんらかのシステムがあり、そのシステムで学ぶものです。

 

 

制度としての教育に対峙して、パーソナルな学びというのも考えられます。

 

パーソナルと言っても、別に一人で学ぶということではありません。

 

集団で学んでもいいのですが、自分が学びたいことを学ぶ、同じことに興味がある仲間が集い学ぶ。

 

そんな学びもあるでしょう。

 

 

古代ギリシャの学びとは、まさにそのような学びであったようです。

 

 

例えば、代表的な都市国家アテネ(アテナイ)では、労働はすべていわゆる奴隷階級に任せて、自由市民は暇でした。時間を持て余していました。

 

あまりに暇だったので、彼らは、何かを考え、何かを学ぼうとしたようです。

 

かなり有意義な暇の使い方です(微笑)。

 

古代アテネの自由市民は、ともに集い、酒を飲み、食事を取りながら、政治や芸術について議論しました。(しかも、それぞれ、長椅子に寝転がりながらです。)

 

この饗宴のことを、古代ギリシャ語で、シンポジオンと呼びます。

 

現在のシンポジウムの語源でもあります。

 

 

 

 

古代ギリシャのシンポジオンは、現在のシンポジウムと違って、飲んでは議論し、食べては議論し、寝ては議論し、というのを何日も繰り返したようです。

 

古代ギリシャの自由市民は暇を持て余していましたから、こんな学びができたようです。

 

こんな暇から生まれた議論から、古代ギリシャの学問は生まれたようです。

 

 

古代ギリシャ語で、「暇」をスコレーと言います。

 

現在の英語のSchool(学校)は、スコレーを語源としています。

 

 

暇だから、暇を持て余しているから、学問をする。

 

それが古代ギリシャ人のスコレーでした。

 

現在の信じられないくらい忙しい学校とは大きく違いました。

 

 

古代ギリシャ人は、暇を持て余しながら、考え、議論する学びを、ある言葉で呼び表しました。

 

フィロソフィア(ピロソピアー)です。

 

この言葉は、いま、英語で、”Philosophy”(哲学)という言葉の語源となっています。

 

ギリシャ語で「フィロ」とは「愛する」という意味です。

 

そして、「ソフィア」とは、「知恵」という意味です。

 

つまり、フィロソフィアとは、「知恵を愛する」という意味になります。

 

暇を持て余しながら、酒を飲みながら、食事をしながら、友と語り合い、考えあう中で得られるものがフィロソフィア(愛知)ということになります。

 

ちなみに、日本の都道府県の「愛知県」は、まさにフィロソフィアの直訳ですが、愛知県の愛知は、万葉集の「あゆち」に由来していて、古代ギリシャとは関係がないようです(微笑)。

 

 

フィロソフィア(直訳では愛知)は、現代でこそ、「哲学」と訳されますが、元来は、「学問」とでも訳すべきでしょう。

 

饗宴(シンポジオン)の境地はまさに、「学び」、「問う」ことでした。

 

 

人は、時間があり、暇を持て余すとき、いろいろと考えるものです。

 

そして、時に、その考えを他人と共有したくなるものです。

 

仲間と想いや考えをぶつけ合い、真実を探そうとするものです。

 

 

そのためには、やはり、人には、持て余すくらいの暇が必要です。

 

考える時間、思索する時間、仲間と意見を交換する時間が必要です。

 

時には、飲みながら、食事をしながら、泊りがけでもいいかもしれません。

 

 

現代に生きる私たちは、学習や教育と聞くと、机に向かい、時間割が決まっていて、せかせかと進めていくイメージがあります。

 

カリキュラムという名のもとに、学ぶべきこと、教えるべきことが、細密に決まっています。

 

このカリキュラムという言葉は、ラテン語で、「走ると決められた経路」(つまりは、ランニング・コース)という意味です。

 

古代ギリシャの饗宴(シンポジオン)と比べると、なんともせわしく、なんとも慌ただしい学び方です。

 

 

確かに、効率を重んずれば、カリキュラムに落とし込んだ、時間を厳密に定めた学び方は賢い方法なのでしょう。

 

一定の時間に、一定の成果を出すためには、カリキュラム的な考え方が必要です。

 

 

でも、人として、考え、語り、聞き、学び、内省するということを極めようと思うと、やはり、古代ギリシャの饗宴型の学びになるのではないでしょうか。

 

 

そのためには、有り余る時間が必要です。

 

持て余すほどの暇が必要です。

 

 

現在を生きる、子供たち(学習者)、大人たち(教師&保護者)に、一番欠けているのが、持て余すほどの暇(スコレー)でしょう。

 

そうは言っても、現代人は、労働をすべて奴隷階級に任せるわけにはいきません。

 

現代人は、「勤労」を多かれ少なかれ義務付けられています。

 

勤労は、日本国憲法に規定されている国民の三大義務の一つでもあります。

 

勤労とは、「心身を尽くして働く」という意味ですから、古代ギリシャのスコレーとは反対語のようなものです。

 

勤労に慣れきった現代人は、古代ギリシャのスコレーを持つことは、ほぼ不可能なのかもしれません。

 

 

でも、私は、現代人こそ、古代ギリシャ人のようなスコレー、つまりは、暇を持て余す、時間を持て余すことが必要だと考えています。

 

 

暇の中から、発想は生まれます。

 

時間の中から、新しい考えは生まれます。

 

 

知性とは、ランニングコース(カリキュラム)からは生まれません。

 

学問は、スコレー(暇)から生まれるものです。

 

 

そう言えば、昨今、AI(人工知能)の発達により、何十年後かには、多くの仕事がAIに奪われると危惧されているようです。

 

数百(あるいは、数千)もの仕事が奪われると心配している人もいます。

 

どの仕事がAIに奪われないかを議論している人もいます。

 

 

私は、もし、AIが現代人の仕事を代わりにやってくれるのであれば、是非、やってもらえばいいと思います。

 

そして、再び、古代ギリシャ人のように、有り余る暇と時間を手にしたらいいと思っています。

 

古代ギリシャでは労働を奴隷階級に任せましたが、これからの現代人(近未来人)は、労働をAIに任せてもいいのではないでしょうか。

 

有り余る暇と時間を手にして、その暇と時間の中で、考え、語り、聞き、議論し合い、新しい智慧を生み出すのも素敵なことだと思います。

 

 

スコレーを再び手にしたとき、人類は、知的に甦るのではないかと、ひそかに期待しています

 

 

そんな日が来ることを願いながら、私は、今日から、スコレーを大事にしていきたいと思っています。

 

 

 

 

では、また明日!!

 

 

 

 

教採塾

河野正夫

 

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