想いとは何でしょうか?
志とは何でしょうか?
信念とは何でしょうか?
私たちは、誰でも想いを持っています。志もあるでしょう。信念と呼べそうなものもあるはずです。
でも、そういった想いや志や信念を言葉というカタチにするのは難しいものです。
いや、とういうよりは、言葉というカタチにならない想いや志や信念は、かなり曖昧なものです。もしかしたら、想いや志や信念がある気になっているだけで、そういう時には、本当は、実体はないのかもしれません。
教員採用試験の面接では、私たちの想いや志や信念が試されます。
しかし、往々にして、教採の受験者は、本当の想いや志や信念を述べません。
教採の面接のためだけに作った心が伴わない作文を想い志や信念として述べます。
どこかで聞いた、「子供に寄り添う」、「笑顔が溢れる学級」、「子供の成長を見守る」といった耳に心地よい言葉を羅列することで、自分の語りが完成したと錯覚します。
そんな語りでは、語りの中身を深く追求されたらひとたまりもありません。
そんないい加減な語りが、教採の面接では多いのが現実です。
そして、そういう語りばかりをして、毎年のように教採で不合格になります。
ここでまた、いつものように、教採の語りを恋愛に喩えてみましょう。
皆さんに大好きな人がいるとします。
その人のことが本当に本当に大好きだとします。
この場合なら、周囲から反対されようと、友人から、あの人でいいの?と言われても、あなたの恋心が薄れることはないでしょう。
たとえ、周囲の人を納得させることはできなくとも、あなたの想いは変わらないでしょう。
でも、多くの教採受験者の志望動機や自己アピールには、そこまでの想いはありません。
ありきたりな良い子ちゃん作文です。
耳に心地よい言葉を連ねてはいるけれども、相手の心に突き刺さる力はありません。
相手が納得してくれるか、相手を説得できるか、相手に好かれるかどうかの前に、あなたの心に確固とした想いがないことが圧倒的に多いのが面接の語りです。
確かに、面接の語りは、合格のための方便という見方もできます。
でも、その方便が、あなたの心のいい加減さ、あなたの人間の軽薄さを表してしまう不合格の要因となってしまいます。
たとえ、好かれなくても、自分の本物の想いを伝えるという自分の軸がないのが教採の面接の語りです。
確かに、教採の面接で合格するには、面接官の好印象を勝ち取る必要があります。
でも、軸のない表面だけを取り繕った語りでは、誰の心も動かせません。
よくビジネスで使われる言葉に、選択と集中という言葉があります。
選択と集中
まさにこの言葉こそ、教採の面接の語りの真髄を表しています。
教採の面接官の好感と共感を勝ち取るためには、戦略的に、想いの選択、言葉の選択をしなければいけません。
しかし、いったん選択したら、その想いに集中し、自分が用いる言葉に集中し、その想いと言葉に徹底的にこだわり、ディフェンスできる必要があります。
喋ったのはいいけれど、あまり突っ込まれたら困る、では、根本的にダメなのです。
喋ったからには、どんなに突っ込まれても、自分の想いをディフェンスできるという準備と技が必要です。
まずは、自分が納得できる想いとストーリーを作らなければいけません。
そして、それは、良い子ちゃん作文ではいけません。
どこかで聞いた耳に心地よい言葉の羅列ではいけません。
その想いを、その言葉を、どんなに突っ込まれてもディフェンスできなければいけません。
皆さん自身の想いです。
皆さん自身の言葉です。
皆さん自身がディフェンスできなければいけません。
自分がディフェンスできない自分は、存在するとは言えませんから。
河野正夫
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