先生とは,どんな存在なのでしょうか?どんな存在であるべきなのでしょうか?
古くから,長い間,問われ続けてきた問いなのではないでしょうか。
確かに,教科書を読んで説明するだけでは,良い先生とは言えないのかもしれません。
知識を一方的に投げつけるだけでは,良い先生にはなれないのでしょう。
最近は,教師はファシリテーターと呼ばれたり,教師は子供たちが主体的に学ぶ手助けをする存在だと言われます。
結果よりも過程(プロセス)が重視される機運もありますから,教師は,子どもたちが学習する過程において,主体的に課題を発見し,考え,その課題を解決するのを助け,見守る存在とも言われます。
その意味で,教師のモチベーター(動機づけする人)としての役割が注目されています。
教師のプロデューサー的な力が期待されています。
それらは,すべて正しいことです。
教師は,上記のような役割を担う必要があるのは間違いありません。
しかし,私は,ここで,百科事典のことを思い出します。
百科事典とは,森羅万象について,何十万項目もの事柄を説明してある,全20巻,全30巻といった膨大な量の事典です。
かつては,図書室や図書館の花形的な本でした。
現在では,電子化されたり,また,ウィキペディアのように誰でも執筆・編集ができるネット上の百科事典もあります。
さて,現代人ならほとんどの人が知っている・使ったことがあるウィキペディアについて考えてみましょう。
ウィキペディア日本語版には,今日現在,100万を超える記事(項目)があります。
ウィキペディア英語版なら,今日現在,500万を超える記事(項目)があります。
もはや,すべての記事(項目)を読むのは,一生かかっても難しいでしょう。
ウィキペディアに限らず,百科事典は,人類の知識の集大成です。ペーパー版のかつての百科事典でも全20巻以上,数万ページにわたって,人類が知り得た学術的な知識を網羅することを目指して,編集されていました。
学問とは知識だけではない!と言っている人でさえ,ウィキペディアで物事を調べることはあるでしょう。
電子版・紙版を問わず,百科事典は知識の宝庫ですから,私たちは,日常的にその知識の宝庫を利用します。
未知の言葉や未知の文物に出逢った時,まずは,ウィキペディアといった百科事典的なもので調べます。
私たちは,ウィキペディアには,この世の中のことは,概ね,記述されていると信じています。確かに,時には不正確な記述等もありますが,それでも,まずは,ウィキペディアを見てみようと思います。
言い換えると,分からないことがあれば,まずは,ウィキペディアに聞いてみよう!といった感じになっています。
そして,それはそれで,悪いことではありません。
ちょっと分からないことがあったときに,手軽に知識を授けてくれる存在は,とてもありがたいものです。
手軽に授けてもらった知識を出発点として,より詳しく調べる,より確かなソースに当たる,時には,ウィキペディア自体の記述の書き換え提案もできるかもしれません。
学びや探究の出発点に,ちょっと手軽な知識の宝庫があります。
ウィキペディア(百科事典)の記述は,最終的な答ではありません。
次のステップのための出発点,霧の中の光る標識,迷ったときの目印のようなものです。
ウィキペディアの知識で終わってしまうと次がありませんが,次に進む,次を探求するための踏み台として使うのであれば,ウィキペディアはかなり有用です。
そして,ウィキペディアにある100万記事,あるいは,500万記事は,すべての人にとって有用なものではないでしょう。
100万の記事のうち,人が1年間で調べるのは100か,200か,多くても数千記事くらいでしょう。
100万の記事のうち,99万記事は,ある人にとっては,まったく興味のない記事かもしれません。
でも,森羅万象の知識がウィキペディアにはあるということを知っていることで,私たちはどこか安心します。
困ったら,ちょっとwikiってみようと思えます。
カッコよく言い換えるなら,ウィキペディアをはじめとする百科事典は,ある人がある日,たった一つのことを調べるときに,その疑問に答えるために,あらかじめ,何十万項目を何万ページ,何十万ページにわたって記述しています。
この項目を読む人が,何万人に一人はいるかもしれないと思えば,百科事典はそれを記述します。
人間の知識を網羅するという目標とはそういうものなのでしょう。
だから,私たちは,多かれ少なかれ,百科事典を重用しています。
多かれ少なかれ,百科事典に頼っています。
さあ,ここで,教師の出番です。
私は,教師も,ちょっとした百科事典の役割を果たすべきだと信じています。
もちろん,教師は一人の人間ですから,100万項目の知識をすべて詳細に記述することはできません。何百万枚もの画像を示すこともできません。
でも,私は,教師・先生とは,「物知り」であるべきだと考えています。
教師・先生は,単なるファシリテーター,単なるコーディネーターではいけないと思っています。
教師・先生は,ただ単に,子供の応援団であればいいというものではありません。
教師は,ちょっとした百科事典として,子供が「これは何ですか?」とか「これはどういう意味ですか?」と聞いたときに,ファーストステップとなる知識を授けることができるべきです。
子どもが「これは何ですか?」,「これはどういう意味ですか?」と聞いたときに,ことごとく,「自分で調べてごらん。」では,あまりにも情けないのではないでしょうか。
例えば,小学生が学校の校庭である植物を見つけて,「先生,これは何?」と聞かれたら,やはり,先生は,「これはね,XXという花だよ。YY月くらいに咲く花で,いい香りがするよね。図書室のZZという図鑑に詳しく載っているから,調べてみると面白いよ。」なんて,答えられたら最高ですね。
また,時に,高校生が夜空を指さして,「あの赤い星は何?」と聞いてきたら,やはり,先生は,「あの星はXXという星だよ。YYという星座で一番明るい星なんだよ。YYという星座には,ZZZという面白いストーリーがあるから,今度,調べてごらんよ。ロマンチックなストーリーだよ。」なんて,答えられたら最高ですね。
子どもに質問されるたびに,「自分で調べてみよう!」ではダメなんですよね。
最近は,知識も教養もなく,ファシリテーション能力だけを誇る教師志望者が多いように感じます。
教師自身が知識も教養もないのに,子供たちに,「自分で調べてみよう。」と問いかけている場面が多いような気もします。
確かに,知識の伝授だけが教育ではありません。
知識の伝授だけが教師の仕事ではありません。
しかし,それでも,教師には圧倒的な知識と教養が必要です。
教師は,ちょっとした百科事典の役割を果たす必要があります。
私たちがウィキペディアをそれなりに重宝し,私たちの探究活動のファーストステップにするように,子供たちも教師・先生を,子供たちの探究活動のファーストステップとして重宝できるようになると素敵ですね。
ちなみに,私は,小学生の頃,百科事典を二十数巻,最初のページから最後のページまで読みました。3年近くかかりました。
特に,百科事典の内容を記憶しようという目的で呼んだのではありません。
人類の知識を,一回は,すべて私の眼の前で見てみたかった・読んでみたかったのです。
私が小学生の時に読んだ二十数巻の百科事典から学んだことは,一つ一つの項目の詳細ではありません。
私が小学生の時に学んだのは,人類の知識の広がりと,知識へのあこがれ,知識への敬愛でした。
二十数巻の百科事典を読んだからと言って,小学生時代の私の成績が劇的に向上したわけではありません。
ものすごい名門中学校に進学したわけでもありません。
具体的に役に立ったかと聞かれれば,答えはノーです。
でも,二十数巻の百科事典を読み終わって,私は,知識の網の目(英語で言えば,ウェブですね)を肌で感じることができました。知識を獲得し続けてきた人類の文明と文化の歴史を感じることができました。
そして,フランシス・ベーコンがいみじくも言った通り,
Knowledge is power.
知識は力なり。
を実感しました。
百科事典を英語で言うと,”encyclopedia”ですよね。
“encyclopedia”とは,ギリシャ語で,”knowledge in circle”(人々に共有される知識)という意味なのだそうです。
“knowledge in circle”を子どもの頃から感じることができたのは,私の人生で幸運・幸福なことでした。
教師も”knowledge in circle”を知り,感じ,伝えることができなければいけませんよね。
知識こそ,人類が数千年以上かけて,探し求め,築き上げ,そして,未来に向かって今も集積され続けているものなのですから。
教師よ,百科事典たれ!
私は,そんな言葉を発したいと思います。
では,また明日!!
河野正夫
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