【川上貴裕】『暗記する』ことと『考える』ことの違いは、何でしょうか? 一緒に紐解いていきましょう!
- By: Kyousaijuku
- カテゴリー: 教育論
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レトリカ教採学院(教採塾)の川上です。
巷で話題の、センター試験が終了しましたね。
今回の世界史の問題では、23年ぶりに、ミスがあったようです。
文中の「魏」が「三国時代」か「戦国時代」か限定されていなかったので、正解の選択肢が、間違いだと解釈する余地が生じた、というものでした。
センター試験最中に、これを指摘することは、相当の自信がなければ、難しいものでしょう。
ミスを指摘した受験者を称える記事の中に、「暗記ではなく、考える力が身に付いているから、こういう指摘ができる。」というものがありました。
『暗記する』ことと『考える』ことの違いは、何でしょうか。
一緒に紐解いていきましょう。
フォトグラフィックメモリーの能力を持つ人でない限り、丸暗記というものは、まず不可能です。
高校の定期テストで、一夜漬けをした人であれば、暗記の限界が身に染みているはずです。
教採においても、教採ノートを10冊以上作った!という人が、本番で、4割も取れなかった、という話もSNSで、よく聞きます。
単純な丸写しの暗記や、一夜漬けというものは、ハナから、それをした、ノートに綺麗に写したという、行為の満足で終わってしまい、さほど、頭の中には、残っていません。
厳しいことを言うと、学習における暗記なるものは、ほとんど、「でも、一生懸命頑張った。」という、自己防衛に過ぎない、と言えます。
暗記の限界を知っていながら、いつまで経っても、暗記に頼ってしまうのは、実に愚かなことです。
何よりも大切なのは、暗記に頼ることではなく、考える力を身に付けることです。
一部、Yahooニュースの記事からの引用をもって、考える力について、説明していきます。
例:
「conscience」という英単語があります。
その意味は、受験用英単語集などでは「良心」と書かれています。
そこで、暗記脳の人は、「conscience=良心」という言葉のセットを、頭の中に作りますよね。
これは、いわゆる、『棒暗記』と呼ばれるものです。
「コンシエンス ー りょうしん」と、何回か繰り返し言葉に出してみたり、スペルを書いたりすれば、そのうち記憶として、定着するでしょう。
こうして、難しい単語を棒暗記していきますが、いずれ、忘れてしまいます。
しかし、考える力のある人なら、「conscience」を見た時に、あることに気が付きます。
それは、「conscience」の中にある「science」という文字です。
「science」が「科学」を意味することは、皆分かっているはずです。
すると、「science」の前にある「con」とは、どういう意味なのか、あるいは「科学」と「良心」が、どう繋がるのか、と疑問が湧いてきます。
そうして、語源にまで遡って、単語を認知、理解しようとします。
そこで「conscience」についての知識を広げ、「con」の意味を知ることができれば、次に「con」が、頭についた単語を目にした時、その意味を推測できる可能性が出てきます。
また、漢字で言えば、これは、私が高校時代に、漢字検定準1級を取得する際に、使っていた方法でもありますが、
例:
「老獪」という言葉があります。
老獪とは、さまざまな経験を積んできたことで、培ってきた知識から悪い考えを起こすこと、ずる賢いことを言います。
この漢字の、読み方が分からない時、棒暗記をする人は、辞書で調べ、そのまま、「老獪 ー ろうかい」と覚えるでしょう。
しかし、考える力のある人であれば、「獪」という字に着目するはずです。
「會」というつくりは、「会」の旧漢字です。
すると、次にどこかで、老獪を見かけたとしても、すぐに、「会 ー あ(う)・カイ・エ」という読みからリンクさせ、老獪を読むことができます。
また、「獪」という字は、「猾」とも似ています。
どちらも、「わるがしこい・ずるい」という意味を持っています。
これは、「獣扁ーけものへん」が、けものや、犯罪語の部類に当てはめられていることから、イメージとしても、大体の意味の想像がつきます。
「獪」を理解した後であれば、なおさらです。
頻度としては、「狡猾」という言葉で、「猾」の字を目にする機会の方が多いですから、その逆で、理解するというのも、あり得ます。
こうやって、1つの漢字からでも、他の色々な漢字の成り立ちや意味、ニュアンスの違いに至るまでを、関連させて理解できます。
「獣扁」の漢字が使われている熟語が出てきたときは、文脈から、大まかな意味を推測することも、できるようになります。
以上のように、背景や意味、関連性など、付随する情報とともに、認知して、理解して、記憶したものは、知恵として、応用が利きます。
反対に、暗記で覚えた知識では、同じパターンのものでしか、力を発揮しません。
もっとも、暗記のままでは、記憶に留まらないため、思い出せもしないでしょう。
現役の講師・臨採・正教諭の皆さんにも、ぜひ、お願いしたいのは、自分が太刀打ちできなかった暗記を、ハナから限界があると知っている暗記を、教え子にさせて、同じ目に遭わせないようにする、ということです。
私は、教育が変われば、社会が変わると信じてやみません。
学校教育が、今でも、「知識の詰め込み」と批判・揶揄されるのは、暗記という、負の伝統が、学校教育から抜けていないからだと感じています。
ぜひ、暗記ではなく、考える力を養える、そのような教育を、行っていってほしいと思います。
そして、教採を受験する皆さん自身も、暗記ではなく、考える力をもってして、教採に挑んでいただきたいと思います。
なにより、考える力を身に付ける学習方法は、学んでいて、楽しいですよ!
暗記は、苦行でしかありませんし、覚えないと!!という焦りもありつつ、結局、きちんと覚える事ができないため、精神的に追い込まれて、心身によくないですからね(笑)。
では、また日曜日に!
川上貴裕