教員採用試験の正体とは。面接の正体に挑んでみよう!
- By: Kyousaijuku
- カテゴリー: パフォーマンス力向上, 不合格の理由, 合格への戦略, 面接力向上
【教員採用試験のバイブル】
教員採用試験の正体とは。
今回は,これがテーマです。
教員採用試験とは,「採用試験」,つまりは,「就職試験」です。 採用側である,教育委員会が,従業員である教員にふさわしい人材を選び,採用する試験です。
その根本思想は,一般企業での就職活動(就活)と大きく異なるものではありません。
要は,採用側が,雇いたい!と思える人物に内定を出す(合格させる)という営みです。
教員採用試験で合格するのは,採用側である教育委員会が,採用したい,教師にしたい,一緒に働きたいと思える人たちです。
しかし,不思議なことに,教員採用試験を受検する人の多くは,教員採用試験を「就職活動」だとは思っていません。
センター試験や入学試験のような「試験」だと考えています。
勉強すれば合格する,頑張ればなんとかなる,努力だけで実を結ぶと勘違いしています。 これが教採不合格のはじまりです。
確かに,教員採用試験には,教職教養(一般教養),専門教養といった筆記試験があります。
ここは,センター試験や入学試験のような勉強でも,なんとかなります。
勉強の質と量に,概ね比例した得点を取ることができます。
でも,主に2次試験などで課される面接は,そうはいきません。
面接は,これまでも述べた通り,「人が人を選ぶ営み」です。
教員採用試験は,その本質は,就職試験(就職活動)ですから,面接で,採用側に選ばれる人は,採用側に気に入ってもらえる人,採用側に好かれる人,採用側が教師にしたいと思う人,採用側が一緒に働きたいと思う人です。
一言で言うと,採用側に好感・共感・好印象を持ってもらえる人が,教員採用試験の面接では,合格します。
ここがわかっていない人が多すぎるのです。
ここで間違えるから,毎年のように,面接で不合格になるのです。
教採の面接を受ける人は,面接までもが,「試験」だと思っています。
だから,「勉強」して,正しいことを言えば,合格すると勘違いしています。
受験者だけが悪いのではありません。
金儲けを企む予備校や出版社も,面接の試験的な側面を強調し,講座や書籍を売ろうとします。
でも,面接の本質は,就職活動です。
採用側が,気に入り,採用したいと感じる人が,合格する営みです。
採用の基本は,「一緒に仕事がしたいか」,「この人に仕事を任せられるか」,「この人は仕事・組織に貢献できるか」です。
面接では,勉強量や努力量や,回答が正解かどうかは二の次です。
確かに,教採の面接では,ある程度の,教職教養や教育時事の知識は必要でしょう。
でも,それは,教師になる者としての,一定の常識や教養を示すものに他なりません。
常識や教養があるから,合格するのではありません。
気に入ってもらえ,一緒に働きたいと採用側が思うから,合格するのです。
合コンの話をしましょう。
なんなら,お見合いでも構いません。
合コンでもお見合いでも,参加者は,自分にマッチした,ふさわしい人がいるかなという想いを持っています。
合コンで,あなたが「この人素敵だな!もう一度会いたいな!デートしたいな!」と思う人は,正しいことを言う人でしょうか?
合コンであなたが選ぶ人は,合コンのために,たくさん勉強し,合コンならではの知識を披露し続けるような人でしょうか?
合コンであなたが選ぶ人は,歩き方,座り方,姿勢が,マナー通りの人でしょうか?
合コンであなたが選ぶ人は,合コンのために努力をしてきた人でしょうか?
確かに,合コンでも,ある程度の常識は必要でしょう。
ある程度のマナーも必要です。
合コンでのふさわしい振る舞いというのもあるでしょう。
でも,あなたが合コンで惹かれる人は,好印象な人,好感が持てる人,共感できる人のはずです。
人が人を選ぶとは,そういう営みなのですから。
面接の本質は,人が人を選ぶ営み,つまりは,好印象・好感・共感を抱く人を選び出し,その人を採用する営みです。
筆記試験とは違います。
学力試験とは違います。
面接では,採用側の「人」(面接官)に好かれる人が合格します。
シンプルな事実です。
でも,教採の面接を受験する人は,ここのところを理解していません。
面接を「試験」の一部だと考えています。
だから,勉強します。
正解を言おうとします。
受験作文を繰り返し語ります。
毎年,不合格になり続けます。
そして,「なぜ,自分は不合格になるのか?」と悩みます。
理由は簡単です。
理由は簡単で,不合格になり続ける人は,採用側に気に入ってもらおう,好印象・好感・共感を抱いてもらおうとする意志がなさすぎるのです。
そして,そういう人に限って,正解を言えばいいと誤解しています。
人は,必ずしも,正解・事実・真実に魅せられるのではありません。
人は,人間的魅力に魅せられます。
人は,人間性に魅せられます。
人は,ルックスや雰囲気,表情や,ちょっとした仕草に魅せられます。
人とはそういうものです。
教採の面接で不合格になり続ける人は,「正解」を言おうとします。
「正解」さえ言えば,合格すると勘違いしています。
しかも,その「正解」は,受験者本人が「正解」だと思い込んでいる,くだらない事実です。
なんの説得力も持たない単なる,どうでもいい事実です。
例えば,志望動機。 なぜ教師になりたいのか?と聞くと,圧倒的に多くの人が「恩師に憧れて」と答えます。
事実なのでしょう。
でも,受験者がその昔,小学校や中学校の頃,恩師に憧れていたことなど,採用側の面接官にとっては,どうでもいいことです。
採用したくなるような理由ではありません。
そんな理由ではダメだ!と言うと,受験者は困惑します。
そして,聞き返してきます。
なぜ,ダメなんですか?
なぜダメか。
簡単です。
あなたが大人として,ある人を好きになったとします。
その人が,「なぜ私のことが好きなの?」と聞いてきて,あなたは「初恋の人に似ているから。」と答えますか?
初恋の人に似ているのは,事実かもしれません。
でも,それを言われた人は喜ぶでしょうか?
初恋の人に似ているから好きと言われても,私は,その人の代わりなの?と思われてしまい,かえって不愉快にするだけなのではないでしょうか。
こう言うと,「恋愛と教育は違う。教育はもっと真剣なものだ」と反論してくる人もいるでしょう。
ならば,その意見を認めた上で,言いましょう。
教育は真剣なものだというのであれば,その教育を担う教師になるあなたの志望理由が「恩師に憧れて」なのであれば,次の質問にイエスと答えられますか?
あなたが教師になりたい理由が「恩師のような教師になりたい」のであれば,小学校・中学校を卒業してから,その恩師と会い,教育について語り合いましたか?
特に,教師を目指している今,講師をしている今,その恩師に会い,教えを乞い,共に,教育に携わる者として,教育について語り合いましたか?
もちろん,その恩師がご存命ではないというのであれば,致し方ありません。
でも,あなたの人生に大きな影響を与え,教師という道をあなたが選ぶ最大のきっかけになった人物が教師なのであれば,あなたも教師を志すものとして,その人と教育について語り合いたいとは思いませんか?
でも,実際は違います。
志望動機で,「恩師に憧れたから」という人に限って,小学校・中学校を卒業以来,恩師には会ったことがありません。
会ったとしても,せいぜいが,同窓会で会ったくらいです。
つまりは,事実と言いながらも,軽いのです。 軽いというか,こじつけなのです。
自分の一生の仕事となる教師になろうと思ったきっかけが恩師と言いながら,その恩師に会いに行って,教育について語り合おうともしないのです。
こういう教採受験者は,志望動機がそもそもないのです。
ないからこそ,思い出の中から,恩師を引っ張り出して,志望動機にしているのです。
恩師に憧れたのは,ある程度は,事実かもしれません。
それは,あなたが,今朝,歯磨きをして,うがいをしたのと同じくらいの事実です。
単なる過去の事実です。
本物の志望動機がないから,恩師に憧れていたという昔の事実を引っ張り出して,こじつけているだけです。
今話したことを指摘してくれたのは,教採の面接官経験者の方でした。
「志望動機に恩師・恩師と言うけれど,大人になってから,教師を目指し始めてから,恩師に会いに行って,恩師と教育について語り合った人はほとんどいない。こんなくだらない志望動機を語る人を教師にしたいとは思わない。」
面接官経験者の方が,おっしゃることは,まったく,的を射ています。
そして,面接官は,「恩師に憧れて」などという志望動機をまったく信用しませんし,仮に,事実であったとしても,好感も共感も勝ち取れません。
不合格になり続ける人の面接の語りへの言い訳は,いつもこうです。
「だって,これ,事実です!」
だから,どうした!と言ってあげたいですね。
事実が人の心を動かすのではありませんよ。
事実は,無味乾燥な出来事の記録・記憶に過ぎません。
面接で合格するとは,採用側の人(面接官)の心を動かし,好感・共感・好印象を持ってもらうことです。
こじつけの事実を受験作文として,語ることではありません。
故郷ではない自治体を受験する人が,採用側の面接官に,「どうして,本県を志望するのですか?」と聞かれて,
貴県の教育施策に感銘を受けて,
貴県には自然があふれ,
貴県の研修制度に共感し,
貴県には笑顔がたくさんあり,
などと,くだらないことを言って,面接官を困惑させる人がいます。
面接官は,例外なく,こう思います。
日本の教育施策なんて,日本全国,大体同じだよ。どこに感銘したの?
どの県にだって自然はあるだろう。
研修制度は法律上の義務だしなあ。 笑顔なんて,そこら中にあるよ。
くだらないことを言う,いい加減な想いの,浅はかな受験者だなあ。
不合格になる受験者に特徴的な姿勢は,
それなりの綺麗ごとや事実を言えば大丈夫。
受験作文を言えば大丈夫。
真面目に話しているフリをしていれば大丈夫。
というような浅はかなものです。
だから,毎年,不合格になり続けるのです。
不合格になる受験者は,大きなことを見失っています。
もし,あなた自信が,教採の面接官だったら,あなたのようなことばかり語る人を合格させるでしょうか?
この問いに,「イエス」とその受験者自身も答えないだろうということです。
その受験者もそんなことばかり言う人は,信用しないはずです。
不合格になる受験者も,決して「バカ」ではありません。
不合格になる受験者も,立派な人です。
人の心を持っています。
人として,感動し,共感し,好感を覚えます。
でも,不合格になる受験者は,面接になると,人の心を忘れます。
面接官も人であり,人の心を持っていることを忘れます。
面接の演習・準備とは,受験勉強ではありません。
面接の演習・準備とは,人の心を見つめ直し,人の心を動かす想いと語りを練り上げることです。
人は想いがつながるときに感動します。
人は言葉に想いが載っているときに共感します。
人は,人の想いと言葉によって,心が震えます。
そんな想いを固めること。
そんな言葉を紡ぐこと。
そんな人の心を理解すること。
それが,面接の準備・演習です。
そこには,もちろん,科学があります。
そこには,もちろん,戦略があります。
そこには,もちろん,パフォーマンスの特訓もあります。
でも,人が人の心を忘れたら,人は人を動かせません。
受験作文に頼る面接演習は,人の心を忘れた時間の無駄としか言えません。
人の心は面接の鍵となります。
以上です。
では,また明日!!
河野正夫