【寄稿記事】教育に哲学を!by ようくん。

教育論

今日のブログ記事は、元受講生の「ようくん」からの寄稿記事です。素晴らしい文章を寄せてくださいました。心から感謝します。

初めまして。

私は河野先生の教え子で、教職経験12年目の「ようくん」と申します。

現在、某県にて特別支援学校の教諭をしております。

今回、河野先生より寄稿の依頼を受け、このような形で少しでも恩返しができるならという気持ちで筆を執らせていただいた次第です。

学生の頃、河野先生の講義を受け、見事合格を勝ち取りました。
学生時代にぼんやりと教員採用試験対策について考えていたとき、河野先生のお話を聞き、「これだ!」と思って申し込みました。

実際の講義を受けると、先生の博識で根拠のある話に聞き入ってしまい、教員採用試験対策以上の学びを得ることができました。

実際に教師になってからも、「人に伝える」とはどう在るべきかということを考えさせてもらえる良い機会になったと思います。

教職に就き、1年目は初任者研修を受け、プライベートな研修は少ししか参加しませんでした。2年目になり、研修会のチラシを見たら何でも申し込もうと決め、とにかく申し込み、全国に学びに行きました。その後も、多くの研修に参加し、沢山の技術を学んでは、子どもたちの実践に生かそうと頑張ってきました。

学びとは何かと問われたとき、「過去の自分を壊すこと」と考えています。新しく学ぶことで、今までの自分の概念を打ち砕くことができるのです。

私は、毎年、自分の考えをアップデートしています。それは、去年までの考えと180度変わることもあります。常に、現状の自分を疑い続け、変わり続けています。

学び続けるということは、過去の自分を壊し続けることです。その勇気が皆さんにありますか?今後激変していく社会を生き抜く子どもたちの育成には、それ位の覚悟が必要だと思います。

教員をはじめとする公務員は、「昨年通り」を好みます。新しく変えていくことで、見えていなかったデメリットにぶつかることもあります。昨年通りすることの方が安全なこともあります。

しかし、今、学習指導要領改訂により「カリキュラムマネジメント」が求められています。教育課程の編成は、管理職や教務などの一部の人がする仕事ではなくなったのです。その中で、私はPDCAサイクルの限界を感じています。

現状としてPPPPPPPPPPDCAサイクルになっており、計画するだけでいっぱいいっぱいなのではないでしょうか?そこで、PDCAに代わるものとしてD-OODA(ドゥーダ)ループというものを活用できないかなと考えています。

ここではD-OODAループの詳細は割愛しますが、まず観察する(やってみながら情報を集める)、そこから分析して、方向付けし、そこからやってみるという流れです。ループなので、途中で違うなと思ったら途中で戻ればいいのです。

このように、変化する社会に応じで、教育課程から授業まで変化のスピードを上げていかなければいけません。そのためには、改善に力点を置いて物事を考え、会議の時間を割いていく必要があると思っています。

どうしてこのような考えに至ったかというと、哲学の考えからです。私は最近哲学、特に現象学という分野の哲学にはまっています。

過去のデータを根拠に話をする(このような考え方をデフォルト思考と言います)のではなく、今現時点で自分がどう感じているかを、ストックフレーズ(紋切り型)の表現ではなく、「ありのまま」に表現(このような考えをセンスメイキングと言います)する。そこに質的根拠があり、本質的な意味があるのです。

教育という営みは、ねじ工場で良いねじを作るということとは異なります。過去のデータから品質改善はできにくいのです。

なぜなら、子どもは千差万別、個々に違うからです。今、目の前で起こっていることを、自分の思い込み(この子は発達障害だから、や家庭環境がなど)を取っ払い、どう感じているかを丁寧に考えることで、子どもたちのことが見えてくるのです。

その意識をもつと、自分たちがいかに枠の中で子どもを見ようとしていたかがよく分かります。

子どもができるようになるとき、大人と経験を共有していると言われます。できなかったときは、大人と経験が共有できていないのです。

皆さんは子どもに何かを教えるとき、「この指導法で教えればできると書いてあった」「こうすればいいらしい」と考えていないでしょうか?

それでは、子どもと経験を共有できる可能性は減ってしまいます。目の前の子どもたちがどんな風に感じて体験しているかを見取っていかなければいけません。

そうするためには、まず、自分がどう感じているか、どう感じていたかを思い出さなければいけないのです。

人は何かができるようになったとき、できなかったときのことは忘れてしまいます。また、視覚や聴覚は意識に上がりやすいですが、触覚などの感覚は無意識レベルで感じているのです。

もう一度、できなかったときの自分の感覚を、自分の感覚をフル稼働させ、頭の中のもう一人の自分に詳細に感じ取らせるのです。そうすることで、子どもと経験を共有し、できるようになるのです。

難しい話だったかもしれませんが、今日常生活で行っている当たり前の行動を、どうして当たり前にできるのか、どんな感覚を働かせているのかを考える時間をもつことでできるようになってきます。

例えばボールを投げるとき、ひじの角度は何度で、腕がこのあたりに来たらボールを離すなど考えていないはずです。(この無意識レベルで行える運動動作ができにくい方が不器用と呼ばれてしまうのですが。。。)

グッと持ってヒュッと投げる位の感覚ではないでしょうか?これをもう一度、自分の中に入り込んでどうやっているのかを思い出すのです。(私もまだまだ修行中です。。。)

この体験を共有してできるようにすることが上手いのが、スポーツのプロのコーチだと言われています。

例えば、スキージャンプのコーチは、ジャンプのタイミングを0.1秒早くするために選手にする言葉掛けは「着地地点の10㎝先を見ろ」と言うそうです。

凡人なら、「もうちょっと早く」とか「この地点が来たらジャンプ」とか伝えそうですよね。私たちは何かを伝えるとき、頭で考えたことを伝えがちです。

しかし、私たちができるようになったときの感覚はそうではないことが多いのです。だからこそ、もう一度できなかった自分に戻って感覚を思い出し、そのリアルな感覚を伝えなければいけないのです。
 
長文になってしまいましたが、皆さんも教職に就き、初めは技術で何とか明日を乗り切る状態になるかもしれません。技術も確かに必要です。

子どもの感覚を見取っても、引き出しがないと手立てができません。しかし、いつか頭打ちになる可能性が高いです。ですから、哲学を学び、本質を語れる本物の教師になってください。

河野先生の講義にも哲学があります。ただ教員採用試験に受かるためだけの技術の講義ではないです。技術は明日すぐに役に立ちますが、明後日には役に立たなくなるかもしれません。

哲学、特に現象学の考えをもてれば一生役に立ちます。なぜなら、目の前の子ども見取っていく力が身に付くので、どんな子どもにも役に立つからです。

哲学の学び始めは、何のことかよく分かりません。しかし、沢山の経験(教育以外の経験や学びも大切です。趣味、恋愛、旅行、他の分野の学問等々)を経て、経験同士が結び付き、ある日突然学びに代わり、自分の見方・考え方が変わります。

結論として申し上げたいのは、これからの時代を生き抜く子どもたちを育てるために、教育という狭い世界に囚われず、いろいろな経験をし、その学びを生かして教壇に立ってください。その中で、自発的に哲学の重要性に気付いていただければ幸いです。

 

P.S 教員採用試験で「PDCAサイクルはだめだ!」と言ってはいけませんよ。(もう何十年後には見直されているかもしれませんが。)

 

Contributed by ようくん。

 

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