私は、もう30年以上も持ち続けている信条があります。
それは、
教育者(教師)は、嫌われる勇気を持たなければならない。
ということです。
確かに、教師は、子供と豊かな人間関係を築く必要があります。
共感的人間関係があってこそ、教師の言葉が子供の耳と心に響きます。
しかし、それと同時に、教師は、子供に嫌われる勇気を持つ必要があります。
例えば、教師子供を叱るという場面です。
子供は、教師に叱られたくはありません。
自分を叱る教師のことは、瞬間的には、子供は嫌ってしまうでしょう。
叱られた子供が自宅に帰って、保護者に叱られて悲しんでいることを話せば、保護者もその教師のことを短期的には、嫌ってしまうでしょう。
保護者が怒鳴り込んでくることもあるかもしれません。
もちろん、時間をかけて、丁寧に説明し、心を通わせることで、次第に、子供や保護者の気持ちもほぐれていき、再び、信頼関係を構築することもできます。
現場で、子供たちの教育に携わり、保護者とのやり取りにあたっている人は、こういうことはまさに日常の一コマです。
人は誰でも、自分のことを嫌いになってほしくはありません。
嫌われないために、人は、時に、自分を変えようとまでします。
周囲の人に好かれるために、自分の本当の気持ちを我慢し、自分の在り方を変えることもあります。
教師もまた、一人の人間として、人に嫌われないように、自分の言動を調整します。
でも、時には、子供のために、あえて、嫌われる勇気を持つことも必要です。
叱るという行為もその一つです。
嫌われる勇気をなぜ教師が持てるかというと、理由は簡単です。
たとえ、教師が瞬間的に、あるいは、短期的には嫌われても、子供の将来のために利益になるのであれば、教師がやるべきことは、粛々と行うという心があるからです。
こんな場面は、教育現場には、いくらでもあります。
こんなことは、教師なら、誰でも知っています。
私(河野正夫)も、また、一人の教育者として、嫌われる勇気を持ち続けたいと願っています。
耳に心地よいことだけを言うのは簡単です。
ありもしない希望だけを語るのも容易なことです。
人は自分が聞きたいことを言ってくれる人を好きになります。
人は、自分の想いを代弁してくれる人が大好きなのです。
しかし、教育の場では、自分が聞きたいことだけを言ってくれる先生が、必ずしも最高の教師とは限りません。
教育の場では、自分の想いだけを代弁してくれる先生が、必ずしも最良の教師とは限りません。
教育の場では、自分のことを理解してくれながらも、自分になかった視点を与えてくれて、自分が誤っていたことを指摘してくれる先生が、学習者のためになります。
教育の場では、自分から嫌われる勇気をもって、信念をもって、助言や忠告をしてくれる先生が、学習者の利益になります。
教師の仕事には、見方によっては、残酷な側面があります。
大好きな子供に、瞬間的・短期的には嫌われることを言わなければならない。
嫌われる勇気をもって、子供から嫌われることも仕事なのです。
もっと大きく考えてみると、もっと皮肉なこともあります。
教師になろうとする人の多くは、子供が大好きです。
でも、教育の最大の仕事は、子供を大人にしていくことです。
自分が大好きな無邪気で、お茶目で、天真爛漫な子供たちを、「社会の形成者」と呼ばれる大人にしていかなければなりません。
教師という仕事の一つの宿命は、自分が大好きな子供を、自分が大好きな子供でなくすことが仕事だということです。
例えば、小学校教師を目指す人は、小学生の年代の子どもと関わり、触れ合うことが大好きです。
でも、小学校教師の最大の仕事は、小学生を小学生でなくすことです。つまりは、小学校を卒業して、次の段階である中学校に送り出し、大きく成長してもらうことが、小学校教師の仕事です。
もし、仮に、小学校教師が、小学生に対して、永遠に小学生のままでいてほしいと願い、小学生からその先のステップに成長させなかったとしたら、その小学校教師は、職責を全うしていません。
子供が大好きな教師の仕事は、子供を子供でなくすこと(子供を大人にすること)です。
小学生が大好きな小学校教師の仕事は、小学生を小学生でなくすこと(小学校から次のステップへ向かって羽ばたいてもらうこと)です。
なんだか、皮肉で悲しいようですが、ここに教育の醍醐味があり、教師の仕事の本質があります。
私(河野正夫)自身も、嫌われる勇気をもって、行動し続けてきました。
理知的でかなり厳しいコメントで指導することもあります。
ダメなものはダメ、合格に値しない語りは値しないとはっきり申し上げます。
私の場合で言えば、私の仕事の本質は、受講生を受講生でなくす(受講生に教採に合格してもらって、正教諭になってもらう)ことです。
いつまでも受講生でいて欲しいと願うわけにはいきません。
私の仕事は、原則として、リピーターを希望してはいけない仕事なのです。
私の過去15年間の講座からも、受講当時は、お茶目で天真爛漫だった受講生の皆さんが、教採に合格して、今では、立派な教師になっています。
そういった何人かの方には、時々お会いすることがありますが、皆さん、本当に素敵な教師になっています。話をしても、素晴らしい教育論・指導論を語ってくれます。
そんな立派な姿を見て、大いに喜びながらも、心の中のどこかで、ちょっとだけ悲しく感じることがあります。何年か前のあの天真爛漫でお茶目だった受講生の姿ではないからです。
もちろん、立派な教師になっているのは、本当に嬉しいのです。
でも、教師とは、やはり、自分が教えた天真爛漫でお茶目な学習者の姿が好きなのかもしれません。
たとえ、たまに、こんな風に感傷的になることはあるかもしれませんが、教師は、教育という営みを止めてはいけません。
教師は、学習者の、元学習者の成長を止めてはいけません。
教師は、常に、人の成長と進化を願っていたいものです。
では、また明日!!
河野正夫
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