こららの言葉の後に続く主張は、それぞれの教育理論や教育実践によって違うのですが、例えば、次のようなものになります。
「子供は、教師から学ぶのではなく、自らの経験で学ぶべきだ。」
「教師が教えるのではなく、子供たちが学び合うことが大切だ。」
「教師は、教える人ではなく、ファシリテーターであるべきだ。」
これらの言説や主張に対しては、賛成の人も、反対の人もいることでしょう。
たとえ、これらの教育方法を採用するにしても、決して忘れてはならないことがあります。
それは、教師には学問が必要であり、教師は学問をしっかりと修めていなければならないということです。
経験主義の立場に立とうが、学び合いを指導に取り入れようが、教師がファシリテーターに徹しようが、それぞれの授業を担当する教師が、学問的な深い知識と理解を有していることは、絶対的な必要条件です。
私が10年間近く教育に携わったアメリカでは、上記のような教育を進めている教師は、最低でも修士号を持っていましたし、かなりの教師が博士号を持っていました。
小学校でも中学校でも高等学校でも、修士以上の学位を持っている教師は全体の3分の2を超えていました。
学位を取得することだけが、学問をすることではありませんが、何らかの方法で学問を修めておくことは、教師になるにあたっての必要条件です。
子供たちが経験から学ぶ方法を採用しようが、子供たちがお互いに学び合う形をとろうが、教師がファシリテーターの役割に徹しようが、そのこと自体が、教師が持っておくべき学問的な素養のレベルを下げるものではありません。むしろ、教師はより高く、より深く、学問を修めておく必要があります。
直接、子供に一定のことを単に教える(伝授する)というのは、必ずしも学問は必要がないことがあります。極端なことを言えば、前の日に指導書を読んで、それをそのまま生徒に教えて済ますということもできないではありません。
単に教える(伝授する)という場合は、何を教えるか、何を伝授するかを決めるのは、教師側です。教師が知らないことは教えないわけですし、教師が自信がないことは、うまく教えずにごまかすこともできます。
でも、「教師が教えない」教育方法ですと、そうは行きません。それが経験主義だろうと学び合いだろうとファシリテーターに徹する方法だろうと、教師は常にあらゆる可能性に備えて、どのような側面でもインプットや指導ができなければいけないでしょう。
AとBとCを教えると決めて教えるのは比較的簡単ですが、子供主体で学習を進めると、AとBとCだけでなく、FやMやQやZが出てくるかもしれません。(この譬えは、アルファベットの文字の話ではなく、学習内容を譬えています。念のため。)
ファシリテーターをするには、ものすごい質と量の知識と経験が必要です。ファシリテーターは単なる陽気な司会者ではありません。学問をしっかり修めた人が、ちょっと一歩下がって、参加者の主体的・積極的な学びを促すのがファシリテーションです。
「教師は教えない。」というのを、教師は学問を積まなくてもよいという風に捉えてはいけませんよね。
むしろ、「教師は教えない。」からこそ、教師は、より深くより高い学問を修めなければならないということなのですよね。
私も教員採用試験対策講座の授業では、講義を中心にする時間と、演習を中心にする時間の二つを必ず設けていますが、より深い準備と知識を必要とするのは、当然、演習の方です。
演習は、様々な質問も出てきます。様々な試行錯誤も見られます。予想外の展開もあり得ます。
それらに、適切かつ効果的に対応するためには、教える側の圧倒的な知識と学問的な素養が必要です。
だからこそ、教師は、本来的に「学者」である必要もあると思っています。
確かに「学者」だけではいけません。でも、「学者」の要素も必要なのです。
「教師は教えない。」という命題を言い訳にして、教師が自らの学問の質を落とすとき、教育の劣化が始まります。
教師はいつの世にも、アカデミックな興味を失わないでほしいと切に願っています。
21世紀の教師にも、学問のすゝめ、お願いしておきますね!!
では、また明日!!
広島教採塾
河野正夫
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