本当に合格に直結する小論文指導(添削)とは??

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今日もユニークな観点から、教採の小論文演習(添削)の裏側についてお話を進めていきますね。

皆さんは、次のような経験はありませんか?

自分では随分と考え、表現を工夫して小論文を書いて、模擬試験等で提出したのだが、添削結果はさんざんなもので、「教師としての熱意が感じられない」などというコメントとともに非常に低い評点となっていた。 こんな経験があると思います。

小論文の添削結果や評価は、主観的な要素が強いので、厳しいコメントをもらっても一体、何をどう改善すればよいのかが分からないということも多いものです。また、採点官が何をもって良しとし、何をもって不十分だとしているのかが添削コメントからは読みとれないこともしばしばあります。

この悩ましい問題を今日は3つの観点から考えてみましょう。

1.添削結果(コメント)は検証可能かつ汎用性があるか。

2.具体例かつ改善方向への示唆があるか。

3.添削のための添削になっていないか。

この3つの観点は、そもそもその添削を受ける価値があるのかということをあぶり出します。

1.添削結果(コメント)は検証可能かつ汎用性があるか。 この観点は重要です。小論文の添削はトレーニングであり演習です。添削者の美学を押し付ける場ではありません。その採点に美学以上のなにかしらの文章執筆技法の指導価値が見られるかということです。これなしでは科学的な添削になり得ません。

例えば、「この部分からは教師としての情熱が感じられない」という添削コメントがあったとします。もしそれが書き手の文章表現の技法上からそう受け取られるので、語彙や表現や語りの流れや語り方を変えろというのなら、添削の価値があります。しかし、読んでみてそう感じるだけでは添削になりません。

ここが日本のあちこちで行われている小論文添削の最大の欠陥です。添削者の美学や感性はあってもいいのですが、それだけで添削コメントを書いても、練習者の文章表現力向上にはつながらないのです。ちょうどスポーツで「気合いと根性」だけを指導する精神論的指導のようなものです。

コミュニケーション論や文章表現論を学問として学んでいない、ただこれまでの経験だけで主観的に添削する添削者は、この弊害に陥ることがあります。自分の美学と主観だけでいくらアドバイスしても、相手の技能が伸びることはありません。「もっと頑張れ」以上の効果は期待できないのです。

誤解しないでくださいね。私はそのような添削者を非難・攻撃しているのではありません。そういう人の添削なら、ありがたく聞いたふりをして、すぐに忘れなさいと言うことです。その添削コメントを真面目に受け止め過ぎて、「自分は小論文がダメなんだ」と悩む必要はまったくありません。

小論文執筆もコミュニケーション論に基づく聴衆(読み手)説得行為です。これには理論も技法もあります。「気合いと根性」だけでは文章は書けません(笑)。教採の小論文は自己満足のエッセイではありません。採点官から合格点を勝ち取るための説得行為であり、それには種も仕掛けもあるのです。

従って、添削結果には検証可能性と汎用性が必要です。つまり、ある添削コメントは、それが正しいかどうかを、もし実験すれば、その正しさが実証されなければなりません。例えば、ある書き方は採点官世代には受けないというような根拠が必要です。それも自分だけの感性でなく、客観的なものが必要です。

芸術としての文学は感性に基づくものかもしれませんが、説得を目的とするコミュニケーションは大いに科学的なものです。科学的な視点を忘れて、美学と感性だけに走る精神論的な添削は百害あって一理なしです。といって、添削者とケンカする必要はありません。ありがたく聞いて忘れればいいのです(笑)。

また、添削者の添削方針は、採点官の添削方針とできるだけ合ったものでなければなりません。採点官のプロファイリングをしっかりした上で、どのような文章表現、論理構成、立論が採点官の心を動かすかを客観的に予想することが必要です。

「熱い想いを書け」ではなく、「熱い想いだと感じてもらえるような書き方をするのだ」というアドバイスが必要です。何が「熱い想い」かは、科学的な方法では決まりません。しかし、どう書けば「熱い想い」と感じてもらえるかは、コミュニケーションという科学で説明できますし、その技術は助言できます。

これが添削(コメント)の検証可能性であり、また、汎用性です。検証可能性と汎用性がないコメントは、何度も言いますが、ありがたく拝聴して、すぐに忘れてしまいましょう(微笑)。

2.具体例かつ改善方向への示唆があるか。 他者の文章の問題点を見つけるのは簡単です。しかし、どうすればそれを改善できるのかの具体的な戦略や技法を教えることができなければ添削の意味がありません。小論文などは執筆した人も「なんとなく満足はしていない」ということが多いものです。

自分の文章に満足していない書き手に、「こういう風に書けば、説得力が増す、共感してもらえる、感動を勝ち取れる」という具体的な方策や表現例を示すことが必要です。スポーツでも同じです。「ラケットの振り方が悪い。どうすればいいかは自分で考えろ」ではダメ。どう振るのかを示すことが重要です。

これは決して、添削者が執筆者の小論文を書き変えてあげるということを意味するものではありません。また、単に上手い表現例を与えるだけということでもありません。文章の添削者は、お習字やお花の師範と同じです。まずは、例を示し、そして、弟子にそれを踏まえて新たな創造を促すのです。

山本五十六元帥の有名な言葉に、「やってみせ、言って聞かせて、させてみて、ほめてやらねば、人は動かじ。」というのがあります。注意すべきは、指導者がまずすることは、「やってみせ」だということです。模範を示さない指導者は、怠惰か無能かのいずれかです。模範を示さない添削も忘れましょう。

コミュニケーションが上手い人しかコミュニケーションを教えることはできません。コミュニケーションは学問であり、また、実技であるからです。ピアノが弾けない人はピアノの教師にはなれませんし、野球ができない人は野球を教えられません。文章を上手く書けない人には添削はできません。

添削コメントを読んで、「なるほど!!」、「そうだったのか!!」、「よし、次はそれを応用して書くぞ!!」というような学びや感動を与えることができないのであれば、それは添削コメントに
値しません。ピアノの先生の模範ピアノ演奏は素敵ですよね、習字の先生の字は綺麗ですよね。添削も同じです。

またまた、繰り返しますね。感動も共感もしない添削は忘れましょう(笑)。価値のないものに悩む必要はありません。ただし、一応は謙虚にコメントを拝聴・拝読し、自分を高めるヒントがないかを考えることは必要ですよ。添削コメントを常に上から目線で見てはいけません。まずは、謙虚に受け止めます。

謙虚に受け止めて、しっかり考えた上で、この添削に意味はないと確信できたら悩まずに忘れましょう!! いいですか。忘れるだけですよ。ケンカしたり、侮辱したりしてはいけませんよ(微笑)。

これは添削者としての私自身を戒める気持ちで書いています。私の添削も意味がないと確信できれば忘れればいいですし、私の添削を続けて受ける必要もないでしょう。文章の添削とはそのくらいのプロ意識をもって行うものだと私は考えています。

3.添削のための添削になっていないか。 これはよくあることです。特に料金を支払っての添削の場合、お金をもらって指導する側は何かコメントを書かなければいけないと思います(笑)。だから、添削コメントを書く必要がない時も、もらった料金分はなにかコメントを書こうとするのです(笑)。

そのために敢えて重箱の隅をほじくるようなコメントをすることもあるようですね。これが「添削のための添削」、つまり、添削しなければという強迫観念にかられた上での添削です。こういう添削にも意味はありません。添削者の良心に感謝した上で、忘れるべき添削コメントの一つでしょう(笑)。

私は、小論文の添削をするときに、提出された論文に問題がなければ、「満点です!!さすがです。素晴らしい!!」と書いて、あとは、雑談的なメッセージを書き添えます。良いものを敢えて「添削者の沽券にかけて」添削する必要はないでしょう。良いものは良いのですから。

私は、文章が悪ければ悪いところを厳しく指摘した上で、なぜそれが悪いのかをコミュニケーション論的に分析、指摘します。そして、どうすればよいのかをレトリック論などを駆使してアドバイスします。時には複数の模範文章を書き添えます。書き換えてあげるのではなく「やってみせ」の実践です。

添削のための添削は書く方も読む方も時間の無駄です。無駄な時間を費やすために小論文演習をしているのではありませんから、そこは割り切って、良いものは良いとだけ言い(もちろん、どこがどう良いかを説明することはしますが)、次のチャレンジに進むことが大切ですね。

アメリカやオランダで、コミュニケーション論や「書くこと」を研究してきた私の眼には、日本の小論文指導には大きな問題があるのではと感じています。大学での論文指導は学問的な内容が絡むので、それぞれの教授が最善を尽くしていらっしゃるのでしょうが、教採の小論文の添削は大いに問題ありです。

教採の小論文は、学問成果の発表でも、文芸的な自己表現でもありません。読み手(採点官)の心を動かし、合格点を勝ち取るという説得のコミュニケーションの一形態です。それを教育論や人生観というトピックで行うというものです。教育論や人生観への美学や主観だけでは優れた文章にはなりません。

今日、お話しした3つの観点、

1.添削結果(コメント)は検証可能かつ汎用性があるか。

2.具体例かつ改善方向への示唆があるか。

3.添削のための添削になっていないか。

は、もらった添削に納得いかない時に、振り返ってみてください。

この3つの観点を満足させていない添削であれば、あまり気にしなくても構わないと思いますよ。 そんなときは、添削者への感謝は心の隅に持ちながらも、気にせず、先に進みましょう。

小論文の添削をどう活かしていけばよいかに悩んでいる人がとても多いようでしたので、今日のお話をしてみました。私も添削者として日々、自分に磨きをかけて、不要・無用な添削にならないように、さらにプロ意識を高めながら添削をしていきたいと思います。

では、また明日!!

広島教採塾
河野正夫

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