初めは単なる予測であったものが、いつしか自分が望む期待となり、その期待が、最後には、現実になってしまう、という意味です。
教員採用試験を例にして考えてみましょう。
例えば、自分はあまり勉強していないので、予測として、自分は教員採用試験で不合格になると思ったとしましょう。
最初は、単なる予測として、「自分はきっと不合格になる可能性が高いな。」という思いだったとします。
でも、それが不安の要因になり、勉強に力を入れ始めても自信が持てなくなり、どうせ不合格になるんだから、と思うようになります。そして、もういっそのこと不合格になってしまえば気が楽だ。不合格になって、また、もう1年勉強すればいいんだと思い始めます。
最初は「不合格になる可能性が高い」という純粋な予測だったものが、「もういっそのこと不合格になってしまえばいいんだ。」という期待になってしまいます。
期待になってしまえば、もうダメです。どうせ不合格になって、もう一年勉強するのなら、これ以上、いま勉強しても無駄だと思うようになり、勉強に力が入らなくなります。今年の教採から逃避するようになります。
その結果は、もちろん、不合格という形で現実になります。
予測が期待となり、期待が現実となったのです。
反対に、最初の予測が、「自分は高い可能性で合格するだろう。」であったとします。
そうすれば、その可能性を少しでも高めようと、もっと勉強に力を入れます。勉強が進めば、さらに自信が付くでしょうから、「これは、きっと合格するに違いない。今年で絶対に合格を勝ち取りたい。」という期待に変わります。
その結果、もっと勉強に専念するでしょうから、最終的には、合格を勝ち取るという現実が生まれます。
この喩えで言いたいことは、
最初の予測は、純粋にロジカルなものでも、その予測を持ち続けると、それが、期待という自分の主観的な願い・望みに変化してしまい、その願い・望みを達成してしまう効果をもたらして現実になってしまう、
ということなのです。
こんな例でも、理解できるかもしれません。
全然、勉強もせず遊んでばかりのいい加減な性格の友達が教採を受験するとします。あなたは、その友達をみて、「あれでは、きっと不合格だな。」とロジカルな予測をします。
でも、そのうち、「あんなにいい加減なのだから、あんな奴、不合格になればいいんだ。」という主観的な「期待」に変わってしまいます。
そして、そうなると、何か有益な教採の情報があったとしても、その友人には教えたくなくなるでしょう。
その結果、もともと不合格の可能性が高かったその友人は、さらに不合格に近付くことになり、結果として、不合格になります。
この例においても、最初の予測が、期待に変わり、期待の結果、その友人に有益な情報を教えないという行動がもたらされ、その結果、その友人の不合格という現実がより確かなものになりました。
このように、予測は期待となり、期待は現実となります。
皆さん、よい予測をしていますか?
よい予測は、よい期待となり、よい期待は、よい現実となります。
教採合格を予測し、教採合格を期待し、教採合格という現実を生み出しましょうね!!
では、また明日!!
広島教採塾
河野正夫
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