体罰は、暴力と恐怖で相手を教育する方法です。体罰は違法行為ですが、体罰は暴力と恐怖を用いるが故に、指導において即効性がある場合があります。でも、それは非常に危険な「麻薬」なのです。なぜ「麻薬」なのかをお話ししましょう。
人にあることをさせるのに、それが望ましいことであったとしても、望ましくないことであったとしても、暴力と恐怖で相手にそれをすることを命じるのは簡単です。例えば、拳銃を突きつけてお金を出せと言えば相手はお金を出すでしょう。いつの世にも、暴力と恐怖は、とても簡単な「説得手段」なのです。
しかし、相手にお金を出して欲しい場合、それが借金の形であっても、投資の形であっても、相手を納得させて、相手に自らの意思で積極的にお金を出してもらうように説得するには、かなりの技術とコミュニケーション能力が必要です。
教師が子どもに対する時も同じです。宿題をやってこないとぶん殴ると言えば、恐怖のために宿題を忘れてくる子どもは減るかもしれません。でも、それはものすごく簡単な動機付けを行っているにすぎません。
宿題をやる意義を子どもに適切に伝え、子どもが自発的にやりたくなるような興味深い宿題を考案し、宿題をやってきたことが自分の成長につながると実感させるような指導ができれば、その場合でも宿題を忘れてくる子どもは減るでしょう。でも、この動機付けを駆使するには、教師の側にかなりの熟練と努力が必要です。
暴力と恐怖による強制は、子どもを動かす上でも、恐ろしいほど簡単な方法です。暴力と恐怖に頼っていれば、指導における熟練も努力も必要なくなります。
また、時として、「殴ってでも子どもに教える必要がある」と思いたくなる場合もあるかもしれません。でも、それは、殴る以外に子どもを変容させ成長させる手段を知らない、思いつかない、そして、その努力ができないという証拠に他なりません。それは大人の甘えであり、教師の指導責任の放棄です。
恐怖と暴力による指導は、少なくとも短期的には効果が上がります。これは様々な実験でも確かめられています。ただ、ここで問題としなければならないのは、私たちは効果があるからと言って、暴力と恐怖による教育を選択するのかどうかということです。
私は、体罰は「麻薬」のようなものだと思っています。体罰を行えば子どもは言うことを聞きます。短期的なら成果も上がります。でもそれは、教師の指導力や動機付けをする力をむしばみます。教師が日々、努力をし、思考錯誤をし、悩み、それでも前進するという気概を弱めます。体罰は甘美な逃げ道だからです。
どうしても殴りたい感じるときこそ、体罰以外の指導法を考えるのが教師です。私はそう信じています。教育は効果的なものだけを求めるものではありません。教育の本質は人格の完成です。人間としての行き方、在り方を追い求めることです。
体罰が効果的でも、体罰を選択してしまえば、効果的であるが故に、教師としての苦しみ、葛藤、努力、挑戦が消えてしまいます。教師にとっては、子どもを大人にしていく時の、苦しみや葛藤、努力や挑戦こそが、教師を教育に突き動かす原動力のひとつなのだと私は信じています。
教師が教える苦しみや困難さから逃げて、安易な指導で効果を上げるために、体罰を行うことは、麻薬に手を出すことと同じです。現実がどんなに苦しくても麻薬に手を出し、麻薬中毒になり、自らの生きる価値を消し去ってはいけません。
私は、体罰を行ってしまいがちな教師には、次のように言い続けたいと思っています。
「苦悩から逃げるな。人間の理想を忘れるな。安易な恐怖と暴力に頼るな。やるべきは、悩み、考え、工夫し続けることだ。そして、誇りを持って、教え、指導し続けろ。」
教育に体罰の居場所はありません。
では、また明日!!
広島教採塾
河野正夫
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