【川上貴裕】死とは何か?死は、自殺はなぜ悪いのか?どんな風に悪いのか?いつの時点で悪いのか?誰にとって悪いのか?合理性と道徳性とは?

教育論

教採塾の川上です。

 

 

ここ最近、親しい人の自殺未遂や、自身の経験、また、いじめの実態調査などから、子供の自殺者数を考えたり、講座でいじめ・自殺の答申を取り扱ったりということも重なって、改めて、「自殺とは、死とは、何か。」というのを、考える時間が多くありました。(病んでいるわけではありませんよ!)

 

そもそも、自殺は、なぜ、起こるのでしょうか。

誰にも相談できないとき

いよいよ、孤独になって、絶望したとき

に、起きてしまいます。

 

だからこそ、教師は、自分を信用してくれている子供が、助けを必要とするときに、必ずそばにいてあげることが、大切になってきます。

 

しかし、自殺についての相談が子供から寄せられた場合、文科省も述べていますが、絶対に、一人で抱え込まないことです。

学校組織全体での、あるいは、心理や福祉の関係諸機関との連携が、必ず必要になってきます。

 

というのも、子供から自殺をほのめかすSOSが発せられた場合、教師一人で解決に向かわせようと思ったら、電話・直接会って相談を聞く必要があります。

昼夜・休日問わず、いつでもです。

その間は、子供も、「独りではない。相談できる相手がいる。」ということで安心します。

それが、ほんの1回の電話に教師が出られなかったり、相談しに行っても、その教師がいなかったりすると、それだけで、たった数十分のうちに、自殺してしまいます。

これは、過去の実例です。

だからこそ、文科省も述べているように、複数の教員や、専門機関と連携して、組織的に対応しなければいけないのです。

 

さて、自殺がなぜいけないのか、という問いについて、はく奪説を挙げている学者もいます。

はく奪説は、簡単に言うと、自殺した瞬間、それからのち、生きていたら享受できていたであろうもの(楽しみなり、素晴らしい経験なり)が奪われる、というものです。

要は、まだやりたいことが1つでもあるなら、子供は自殺しない、という観点から、「やり残したことはあるだろう。本当にいいのか?」と訊ねるものが一般的です。

教師が、子供から、「どうして自殺はいけないのか。」と問われたときに、「周りの人が悲しむから。」というものに続いて、多く回答するものではないでしょうか。

 

ただし、これは、あくまでも、緊急避難的な措置としてでしか、使えません。

先ほどの実例も、「今日は○○をしてごらん。」、「○○さんを手伝ってあげて。」というように、日々、自殺を考えている子供に、何か小さなこと1つでもいいので、生きる目的を与え続けて、自己有用感や、自己存在感を感じさせていたそうです。

しかし、その目的が達成された途端に、「自分はもう必要ない。」と感じ、自殺に至ったようです。

 

この実例からも分かるように、本当に、緊急避難的な措置としてしか、有効ではありません。

するのであれば、常に、新しく、1つでもやりたいこと、やり残したこと、自分が誰かの助けになっている、というのを与え続けなければいけませんが、かなり難しいですよね。

 

かといって、その子供の本心を探ろうと、「なんで死にたいと思うの?」と、直接的な質問を投げかけても、解決には至りません。

「それはひどいね、大変だね。でも、だからって死ぬの?悲しかったら死ぬの?振られたから死ぬの?先生、この前、映画見て悲しくなったけど、先生も死んだほうがいいのかな・・・?」

カウンセリングマインドを持ち出すまでもなく、このようなことを言えば言うほど、結局は、「どうしたい?」と、子供に考えさせることしか言えなくなったり、大人都合の引き留め方にしかならず、子供は納得しません。

このやりとりの中で、子供の信頼は、皆無となっていきます。

 

もちろん、言うまでもありませんが、子供が実際に、自殺をほのめかした場合は、必ず引き留めなければいけません。

それを前提にした上で、少しだけ、難しいお話を。

そもそも、「なぜ死んではいけないのか。」という問いに、哲学的な答えは無いということです。

 

「自殺はいけない!ダメだ!」というのも、子供たちが納得する形で、共感させるのも難しいでしょう。

「なぜ、死んではいけないのか。」という問いに、多数の人が考えるものは、「周りの人、残された人が悲しむから。」というものでしょう。

 

実際には、もちろんそうだと思います。

しかし、自殺を考えてまでいる子供に、そこまで考える余裕はありません。

また、周りの人が悲しむから、と言っても、自殺をやめる直接的な理由にはならないでしょうし、納得もしないでしょう。

当の本人が何より一番苦しみ、悲しんでいる最中ですから。

 

名門イェール大学で、死や自殺について教鞭をとっていらっしゃるシェリー・ケーガン教授の著書『DEATH―死とは何か』の中で、興味深い説があります。

「死や自殺することが悪だと思われている理由として、周りの人間が悲しむというものがある。

しかし、亡くなった人間が、亡くなった瞬間以降、本当に何もないとすれば、悪だと感じているのは、周りの人間のみ。

本人は、亡くなった瞬間、何も感じない。

(中略)

例えば、友人がロケットに乗って、火星探査に行くとする。

A.ロケットは、無事に飛び立つが、探査機関が長いので、その友人とは、もう生きている間に会うこと、連絡を取ることはできない。

B.ロケットが飛び立った瞬間、そのロケットは爆発する。乗っていた友人も亡くなる。

AもBも、大きな枠でみれば、もう会うことはできない。

「別離」という観点からすると、どちらも、もう会えない。

しかし、多くの人は、Bの方が、より悪いことだと思う。

なぜなら、友人が死んでしまったという事実に関わるから。

そして、友人にとって死んだのが悪かった、という皆さんの想いが、結果として、Bに引き寄せている。

しかし、別離という点では、AもBも共通。

ましてや、この世に生を受けた人間は、誰にでも平等に死は、いずれ訪れる。

となれば、残された人々にとって、死が悪い、というのは、それだけに的を絞って考えるわけにはいかない。」

 

自殺というものが、軽蔑や恐れや非難が入り混じった目で見られてしまうために、自殺について、冷静に明晰に論じることは難しいという風潮が、私たちの文化にははびこっています。

だからどうしても、自殺について考えるときは、感情論になりがちです。

また、今現在でも、学者の間では、自殺にまつわる合理性と道徳性においては、大論争となっています。

合理性と道徳性は、別個に検証する必要があることは、言うまでもありません。

しかし、どちらにしても、「べき、べからず」について問うものばかりです。

合理性と道徳性が切っても切れない関係、密接に関連していることは間違いありませんが、原理上は、少なくとも、多くの人が、両者は切り離せると考える傾向にあるようですね。

 

では、以下の例なら、どうでしょうか。

この分かりやすい例も、教授の著書の中で記載されていましたので、紹介します。

「例えば、所得税をごまかす可能性を考えたとき。

個人が所得税申告が調査される割合は、ごくわずかです。

仮にバレたとしても、罰金はたかが知れている場合が多いです。

だから、少なくとも合理的な自己利益の見地からは、ごまかすという決断は理にかなっていると言えます。

しかし、たいていの人は即座に、「だからといって所得税をごまかすのが道徳的に受け入れられることにはならない。」と付け加えるでしょう。

つまりこれが、合理的にはやらなくてもいいことを、道徳的にはやらなければならないケースです。」

合理性と道徳性は、一方を考えても、もう一方が必ず問題としてはらんでいるため、それぞれに注意を向けて考えていく必要があります。

となると、先ほども述べたように、「なぜ、死が、自殺が悪いのか。」については、今のところやはり、哲学的な答えはありません。

 

教授は、この後のチャプターで、合理性に限定して、死・自殺についてのお考えを述べていらっしゃいます。

合理性の観点からすると、自殺が正当化される場合も、いくつかあるようです。

正当化される場合もあるとすれば、なおさら、どうして自殺はいけないのか、について、再考しなければいけませんね。

教師である以上、あるいは、教師を目指す以上、「自殺」について、自分なら、どう対応するか、どのような声掛けをするか、直接的・間接的(ニュースなどを見て)に、必ず考える日が来ることと思います(既に考えていらっしゃる方もいると思います)。

さて、

 

・死とは何か

・死は、自殺はなぜ悪いのか

・どんな風に悪いのか

・いつの時点で悪いのか

・誰にとって悪いのか

・合理性と道徳性

 

に加えて、考えていただきたいことがあります。

 

厚生労働省・警察庁の報告によると、児童生徒の自殺者総数が、平成29年度:357人に上るそうです。

これは、過去一番多い数だそうです。

大変に悲しいことではありますが、これからも、増え続けるかもしれません。

皆さんは、この数をどう捉え、どう分析しますか。

 

講座でも、自殺について、何人かの受講生とは話したことがありますが、私も、改めて考え、いくつかの持論に至りましたので、ぜひ、皆さんのお考えも、お聞かせ願えれば幸甚です。

今日は、いわゆる、タブーといわれる領域に、踏み込みました。

しかし、教師を目指す以上、教師である以上、切っても切り離せない課題です。

今一度、考えてみてください。

(なお、シェリー・ケーガン教授の日本語訳の本著は、原書の前半部分が(前提となる大事な部分が)割愛されているので、原版をぜひ、ご覧ください。)

 

では、また来週。

 

 

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