自分の言説だけに囚われないこと、これが、多様性を祝福することの第一歩です!

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【河野正夫の熱い想い】

 

最近、「多様性」という言葉がよく使われます。

「多様性」というのは、確かに素晴らしいことです。

私(河野)自身、多様性を祝福し、多様性に喜びを感じることを大切にしてきました。

 

でも、時々、多様性という言葉が、しっかりとした土台もなく、一人歩きしていることもあります。

多様性は大切だと言っていながら、その実、全然、多様性ではなく、既定の枠組みにガッチリと、はまっていて、従来型の思考に縛られている場合もあります。

 

まずは、簡単な例から。

 

日本には、信教の自由があります。これは、憲法でも規定されています。

そして、多くの人が、信教、つまりは、宗教の自由は、当然、誰にでもあると考えています。

ところが、多くの人がちょっとした落とし穴にはまっていることもあります。

そういう落とし穴にはまっていると、信教の自由の意味するところが、

 

「どの宗教(宗派)を信じても、それは、個人の自由だ。」

 

ということになってしまいます。

 

つまりは、キリスト教を信じようが、仏教を信じようが、それは個人の自由であり、神道でも、イスラム教でも、ユダヤ教でも、自分が信じる宗教を自由に信じればいい、という風に解釈されてしまいます。

 

このことは、信教の自由の、ある側面は、正しく表現しています。

でも、もっとも大きな側面を見逃しています。

それは、信教の自由とは、

 

「宗教を信じるも信じないも自由で、仮に、信じるのであれば、どの宗教(宗派)を信じようが、それも自由だ。」

 

ということだからです。

 

つまり、どの宗教(宗派)を信じるのも自由という考え方では、人は何らかの宗教を信じているのが当然だという強制を内包しているのです。

 

信教の自由の本質は、個人が、宗教に向き合う、その向き合い方は、全く自由であり、そもそも、宗教に向き合う義務もないということなのです。

 

でも、多くの人は、信教の自由は、信じる宗教(宗派)の自由だと錯覚しがちです。

そもそも、無宗教の存在を認めなければ、信教の自由を語ることはできません。

 

もう一つ、興味深い例をご紹介しましょう。

 

よく、次のような言説を耳にします。

 

日本人の(日本食の)主食は、米(ご飯)だ。

アメリカやイギリスでは、パンが主食だ。

ドイツでは、ジャガイモが主食だ。

イタリアで、パスタが主食だ。

 

こういった言説です。

 

確かに、それぞれの国の食文化で、多く食べれれるものであることは事実ですが、この言説は、非常に重要なことを見失っています。

それは、

 

主食と副食を区別するのは、日本などの少数の国の食文化であり、多くの国(特に欧米の国々)では、主食と副食を区別して考える習慣は一切ない。

 

ということです。

 

日本人は、主食が「ご飯」で、副食が「おかず」だと考えています。

だから、英米人や、ドイツ人や、イタリア人も、何かを「主食」だと考え、その他の物を「副食」(おかず)にしていると、勝手に日本人は錯覚します。

日本人が、おかずをご飯に「そえて」食べるように、欧米人も、肉や魚などの料理を、パンやジャガイモやパスタに「そえて」食べるのだと、勝手に勘違いしています。

 

欧米には、主食という概念はありません。

もちろん、栄養学的に、炭水化物も摂取しなければいけないという考え方はあります。

でも、それが、「主食」という」概念にはなりません。

 

欧米人の食卓では、ちょうど日本で、ステーキのプレートに、野菜やコーンが乗っているのと同じような感覚で、料理に(テーブルに)、パンやジャガイモが置かれます。

特に、「主食」としてでは、ありません。

肉を食べるときに、野菜も付け加えるのと、全く同じ感覚です。

 

要は、食事は、ある程度、栄養のバランスなどが必要なので、肉や魚も食べるが、野菜も食べる、炭水化物である、パンやイモやパスタも食べるということに過ぎません。

 

でも、日本人には、ご飯は主食であるという概念が強いので、欧米も、その概念の枠組で見てしまいます。

そして、英米ではパンが主食で、ドイツではジャガイモで、イタリアではパスタが主食だという風に、その枠組みを無理矢理に当てはめてしまいます。

そもそも、主食と副食の区別がない食部文化があるということを全く想定していないのです。

自分が知っている枠組みでしか、他の文化を見ることができない状態になっているのです。

 

このことは、極めて、危険な様相を呈することとなります。

自分の文化の枠組みでしか、他の文化を見ることができない人は、自分では、多様性を尊重しているようでも、その実、その人がやっているのは、自分の文化の枠組みに、他の文化を無理矢理に当てはめて、他の文化を自分の文化の中でのみ、解釈しようとします。

他の文化の人にとってみれば、これは多様性どころか、異なる文化の事実上の強制です。

 

こういう現象は、あらゆるところに、現れてきます。

自分では、多様性を尊重しているつもりでも、その実、自分の文化を押し付けているにすぎないということは、たくさんあります。

 

最近、その権利が尊重され始めているLGBTの人たちに対する誤解も、こういうことが基づいています。

 

私たちの社会の多数派(マジョリティ)は、異性愛(ヘテロセクシュアル)の常識で枠組みが決まっています。

例えば、同性愛というセクシュアル・マイノリティ(性的少数派)について、語るときに、多数派の異性愛の人は、仮に、同性愛という少数派の権利を認めるにしても、多数派の文化の枠組みでしか考えられない場合は、例えば、次のような質問を同性愛(Gay or Lesbian)の人に聞いてしまいます。

 

「あなた方、男性同士(女性同士)のカップルは、どちらが女役で、どちらが男役なの?」

 

この質問は、カップルは男女で成り立つので、たとえ、同性同士のカップルでも、どちらかが男役で、どちらかが女役だという風に決めつけている例ですね。

 

もちろん、カップルのあり方は多様ですから、同性愛者のカップルにも、女っぽい人と、男っぽい人が惹かれ合っているという例もあるでしょう。でも、それが全てではありませんし、男っぽい人同士、女っぽい人同士のカップルが存在してもなんの不思議はありません。

 

これなどは、LGBTの権利擁護までは賛成しているけれど、LGBTもまた、異性愛(ヘテロセクシュアル)の文化の枠組みの中で愛し合っているという錯覚に陥っている例ですね。

 

このように、私たちは、多様性を尊重すると言いながら、その実、自分の文化のものさしでだけ、他の文化を推し量ってしまうことが多いのですよね。

 

自分の言説だけに囚われないこと、これが、多様性を祝福することの第一歩ですね!

 

 

では、また明日!!

 

 

教採塾

河野正夫

 

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