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昨年,「知者楽水」という,ちょっとだけ文化的な個人ブログを書こうとしていました。でも,時間がなく,8つの記事を書いただけで,中断していました。

このブログは閉鎖して,文化的な文章を書きたくなったら,この教採塾のブログに書くことにしますね!(笑)

(あまり,文化的なブログ記事は書かないとは思いますが。)

「知者楽水」の閉鎖に当たって,せっかく書いた8つの記事をここに転載しておきます。

文化的な文章がお好きな方は,お読みいただくと嬉しいです。

 

 

1.初めてのローマ。

 

いつの頃からか,私は,ローマが大好きだった。

中学生の頃には,ラテン語の入門書などをお小遣いで買っていたところをみると,かなり子供のころからのローマ好きだ。ラテン語とは,古代ローマの言語。私が好きなのは,現在のイタリア共和国の首都としてのローマではなく,古代ローマ帝国のローマだ。永遠の都と謳われるローマは,常に私の憧れの的だった。

高校生の頃には,名画「ローマの休日」を見て,真実の口に手を入れてみたいと思った。学生の頃には,ラテン語を改めて勉強し直し,古代ローマの香りを書物から嗅ぎ取ろうとした。

私が初めてローマに行ったのは,かなり遅く,35歳の秋だった。初めてのローマは,一人旅で訪れた。誰にも邪魔されずに,一人でローマを感じたかった。

ナポリから,ユーロスターという列車で北上し,ローマのテルミニという駅に着いた。テルミニとは,終着駅という意味。そう言えば,そんな名前の古い映画もあった。

テルミニを降りて,ローマの街に出る。目の前にすぐ,ローマ時代のテルマエの遺跡が見える。急いで駆け寄り,遺跡の壁に手で触れてみる。二千年の躍動を感じたような気になった。テルミニ付近から,ローマの散策を始める。特に歩くルートを決めていたわけでもない。まずは行きたいところに行くという,今から思えば,非効率な歩き方だった。

最初に歩いて行ったのは,コロッセオ。ローマの象徴。映画,ローマの休日にも出てくる。コロッセオを見上げ,溜息をつく。夢にまでみた古代ローマの円形競技場がそこにある。まずは,外周を一周,歩いて回った。中に入って,アリーナと呼ばれた競技場中心部を見下ろす。海外映画か何かで見た剣闘士の戦いが目に浮かんでくる。1時間はそこに立ち尽くしていただろうか。私の眼の中では,何十組もの剣闘士の試合が次々と浮かんでいた。

コロッセオを後にして,すぐ隣にあるフォロ・ロマーノに向かう。フォロ・ロマーノは,古代ローマ帝国の政治の中心部。カエサルが,ブルータスが,アントニウスが,オクタヴィアヌスが,ネロが,この場所を歩き,この場所で民衆に語りかけた。書物の中でだけ知っていた空間が目の前に現れ,再び,そこに立ち尽くす。観光客はいたはずだが,私の眼には,トーガを身にまとった古代ローマ人しか浮かんでこなかった。

フォロ・ロマーノの後,真実の口があるサンタ・マリア・イン・コスメディン教会を訪れた。観光客たちは,行列を作り,自分の順番になると思い思いに,自分の手を真実の口に差し入れていた。映画,ローマの休日で,グレゴリー・ペックが手を入れて,手を食いちぎられたフリをしたあの名シーンに出てくる真実の口がそこにある。私の番が来て,私の手を,古代のマンホールの大きな顔の口の中に差し入れる。案の定,手を噛み切られることはなかった。ちょっとした安心感と,ちょっとした失望感を胸に,その教会を後にした。

ローマを歩くと時間を忘れる。その日もふと気づくと,既に夕暮れ。ローマの夕暮れは,カピトリーノの丘から見るのも趣がある。フォロ・ロマーノが夕日に映えている。古代ローマの皇帝たちが住んだ邸宅が並んでいたというパラティーノの丘が夕日に照らされて美しい。

ミケランジェロが設計したカンピドーリオ広場を踏みしめながら,その日のローマ散策に終止符を打つ。

この一日で,古代ローマの剣闘士,古代ローマの偉人たち,グレゴリー・ペックとオードリー・ヘップバーン,そして,最後は,ミケランジェロまでが,目の前に現れては消えていった。

これがローマの魅力。

憧れのローマの初日は,夕日に照らされて終わった。

 

2.パンテオンとの出逢い。

 

ローマは古代建築で溢れている。その中でも最も美しいのがパンテオンだ。建てられてから二千年近くが経つが,今でも訪れる人を魅了する。私が初めてローマを訪れた時,もちろん,パンテオンのことは本で読んでいたし,ローマ滞在中に行ってみようとは思っていた。

ところが,パンテオンと私の出逢いは偶然だった。

秋晴れの日,映画,「ローマの休日」にも出てくるスペイン階段に腰かけて,ひと時を過ごした。映画とは異なり,ジェラートをスペイン階段で食べることはできない。重い腰を上げて歩き出す。トレビの泉にコインを後ろ向きに投げて,石畳の道を散策する。

古い建物に挟まれた峡谷の谷底のような道を迷子になりながら歩く。ふと広場に出る。ローマの街は,あちこちにちょっとした広場がある。売店がある。観光客がいる。ふと見上げる。どこかで見たような古い大きな建物がある。

まさか!パンテオンだった。写真で見て,外見を知っていたパンテオンがそこにあった。

パンテオンに入る。パンテオンは,円柱状の建物の上にドームが載っている形状。中に入ると大きな空間が広がる。円柱の直径は43メートル余り。天井までの高さも同じだという。外から見るより,はるかに広い空間だ。二千年も前の建物だとは信じられないくらい素晴らしいつくり。

ふと上を見上げる。あまりの美しさに体が凍り付く。天井には,オクルスと呼ばれる円形の窓がある。窓といってもガラスなどがはめてあるわけではない。大きな真円の穴。そこから,太陽の光が,いや,晴天の光が漏れてくる。パンテオン内部の広い空間はその光で満たされている。

溜息が出る。こんなに美しい空間があるのかと我が目を疑う。光と空間は,こんなにも美しいものか。ある言葉が心に蘇ってきた。何かの書物で読んだ言葉だ。

「これは天使の成せる業だ。」

ミケランジェロがルネサンス時代に初めてパンテオンを訪れ,この空間を見上げた時につぶやいた言葉だという。天使の成せる業。壮大な傑作をたくさん残したミケランジェロでさえ,光が零れるこの空間を見て立ちつくしたという。

二千年もの間,パンテオンは訪れる人々を光と空間で虜にしてきた。ミケランジェロが見たパンテオンも,建てられてから既に千五百年ほどが経過していた。

時を超え,パンテオンの天井のオクルスから射し零れる光は,何よりも美しく感じられる。それも納得できる。天使の成せる業なのだから。

 

3.ポンペイの思い出。

 

ナポリから車で1時間ほどのところにポンペイ遺跡がある。ポンペイは古代ローマ帝国の時代に栄えた都市だ。西暦79年の夏の深夜,すぐ近くにあるヴェスヴィオ火山の噴火による大火砕流で,一瞬にして都市は完全に地中深くに埋まった。

それから約千七百年間,ポンペイは忘れ去られた。18世紀になって,地中に都市が丸ごと埋まっていることが発見され発掘された。

一瞬にして埋まったポンペイは,二千年前の様子をそのまま現代に残している。降り積もった火山灰の重みで建物の天井だけは落ちているが,壁や床は当時のまま。石畳の街路も神殿も居酒屋も,そして,娼館までもが,当時のままで残っている。

都市一つが当時のままで保存されている。居酒屋のテーブルには食器が置いたままだったという。

ポンペイの街は大きい。歩いて廻ると丸一日はかかる。都市のすべての街路を歩きながら,ここは大富豪の家,ここは居酒屋,ここは何々とそれぞれの家に入ることができる。

また,私の妄想癖が始まる。観光客で混雑しているが,その雑踏が私には二千年前のポンペイ市民たちの賑わいに聞こえる。ポンペイの街のあちこちを歩く観光客が,私には,古代ローマ時代のポンペイ市民たちに見える。

西暦79年に止まった時間がまた動き始める。妄想の中でポンペイは突如として蘇る。

居酒屋だったという家の前に行き,石でできたカウンターらしきものを見る。私の眼にはほろ酔い加減のポンペイ市民たちがワインを水で割った当時人気の飲み物を飲んでいるのが見える。近隣で採れる果物も美味しそうだ。

娼館を訪れると,エロティックな壁画に囲まれた空間の中に,大勢のエキゾティックな娼婦たちが並んでいるのが目に浮かぶ。妄想に過ぎない。しかし,ポンペイのような遺跡を訪れるときには,この妄想が楽しみだ。

丸一日かけて妄想を楽しみ,ポンペイを後にする。さっと秋風が吹く。ポンペイの街にかすかな砂埃が立つ。砂埃の向こうにややかすむ午後遅くのポンペイは悲哀に満ちている。古代ローマ時代に繁栄を極め,千数百年も忘れ去られていた都市がひっそりと佇んでいる。

ふと一句浮かんだ。

秋風や つはものどもが 夢の跡

いやいや。芭蕉先生に叱られてしまう。この一句は封印することとしよう。

 

4.サンタルチア港の黄昏。

 

ナポリ港は地中海でも有数の港。そのナポリ港から1キロと離れていないところに、サンタルチア港がある。ナポリ港とは比較にならないくらい小さな港だ。小さな船が数十隻くらい見える。すぐそばにナポリ港がなければ、イタリアの寒村の港としか思わないだろう。

しかし、サンタルチア港は誰でも知っている。カンツォーネ「サンタルチア」によって世界中に知られている。サンタルチア港を見たことがない人でも、サンタルチアという歌は知っている。

サンタルチア港は小さな港だが、世界的に有名な場所なので、優雅なレストランがたくさんある。かなり高級なものから、お手軽なものまで、サンタルチアのレストランはとにかく美味しい。

特に人気なのが、波打ち際のテラス席での夕食だ。テラス席といっても、小さな船が何十隻か停泊している波止場のようなスペースを利用したもの。テーブルから1メートルも離れていないところで、小舟が波に揺れている。

サンタルチアでの食事は夕暮れ時がよい。夕日に映えるサンタルチアの海は美しい。陽が沈み、暗がりが広がり始める頃のサンタルチアの光景は、何物にも換えがたい。

元々が波止場を利用したテーブル席だけに、テーブルから、少し離れたところを人が通る。同じレストランの客か、通りがかりの観光客か、はたまた、停泊している小舟の主か、暗がりに包まれ始めているので、はっきりとは見えない。黄昏時とは、よくいったものだ。黄昏だから、通行人も景色の一部となる。サンタルチアは黄昏時に限る。海と空と舟と人が融合する。

ふと、サンタルチアの歌詞の3番を思い出した。

Tu sei l’impero dell’armonia.
汝は調和の帝国なり。

サンタルチアに語りかけ、調和の帝国だと賛美する。l’impero dell’armonia、英語で言えば、the empire of harmony。黄昏時のサンタルチアで食事をしながら、大いに納得する。

海の幸をたっぷりと楽しみ、夜も更けてきた。銀色の星々が夜空にまたたき、波は静かで、そよ風も心地よい。おや、これは、サンタルチアの1番の歌詞、そのままではないか。

サンタルチアの黄昏を楽しみ、夜を迎える。これに勝るディナーはあるまい。

 

5.灼熱のブリュッセル。

 

10年あまり前だっただろうか。アムステルダムのある大学の夏季研修で学んでいた。その年の夏は、ヨーロッパを史上最悪の熱波が襲い、連日、50℃以上の殺人的な気温が続いた。「殺人的」と書いたのは誇張ではない。実際、ヨーロッパではその夏、20万人以上の人が、熱波により命を失った。

あまりの暑さに観光地も悲鳴をあげていた。観光客も激減していた。人が少なくなれば、動き出すのが私の悪い癖。生まれながらの天邪鬼だ。

研修が休みの日、隣国のベルギーに行く。隣国といっても、オランダとベルギーの間には、目に見える国境はない。小さな標識があり、そこからがベルギー。ぼうっとしていると国境を超えたことには気づかない。ベルギー北部はオランダ語を話すから、言語的にもほぼ気づかない。

ベルギーの首都はブリュッセル。EU本部があるから、EUの首都とも呼ばれる。ブリュッセルは、オランダ語とフランス語の2言語が話される。オランダ語が話されるということは、概ね英語も通じる。英語は分かるし、オランダ語もそこそこ学んだので、これは一人歩きも大丈夫だろうと、たかをくくった。

猛暑で気温が高すぎるから屋外には出るなという助言にも耳を傾けず、1人、ブリュッセルの街を歩く。暑い。銀行か何かの電光掲示板に現在の気温が表示されている。54℃。目が眩む。さすがに命の危険を感じる。

どこかカフェにでも逃げ込もうと決意する。ちょうどよくランチの時間帯。向こうに広場が見える。いくつかカフェが店を構えている。

お洒落そうなカフェを選び、店に入る。テーブルに座る。メニューを見る。フランス語だ。なるほど、ブリュッセルは、フランス語圏とオランダ語圏がモザイクのように入り混じっていると聞いた。ここはフランス語を話す店か。

もちろん、頼めば、オランダ語のメニューも英語のメニューもあるはずだ。しかし、カッコつけようと思った私は、フランス語で通すことにした。

しかし、私のフランス語は錆び付いている。ものの役には立たないレベルだ。

ギャルソンが笑顔でやってくる。Bonjour monsieur. やはり、フランス語で話しかけてくる。私も負けじと、Bonjourと答える。

フランス語のメニューは、さっぱりわからない。

わかったのは、グラスのシャンパンと、スモークサーモンのサラダだけ。しかし、それでは、腹一杯にはなるまい。覚悟を決めて、意味もわからず、肉のセクションから、適当に料理を選ぶ。料理名をフランス語で発音し、S’il vous plaît.を付ける。もちろん。料理名を発音するときは、フランス語の“R”音をことさらに響かせることを忘れなかった。

“R”音が効いたのか、ギャルソンは、笑顔で Oui monsieur. と言い、厨房に下がる。私のフランス語もなかなかいけるではないかと悦に浸る。

シャンパンのグラスが運ばれ、スモークサーモンのサラダが運ばれる。初めてのフランス語だけでのランチは上等の滑り出し。

ところが、肉料理が来たところで、大変なことになる。運ばれて来た料理は、なんともグロテスクなもの。肉というよりは内臓。内臓というよりはどこか体の一部をそのまま切り取って煮込んだようなもの。体のどの部分なのかはわからない。見るだけで食欲を失う。

ナイフとフォークで、小さく切り取って、口に入れてみる。不味い。気持ち悪い。一口食べただけで体が震えるほどの異様な味。後で調べて知ったのだが、ベルギーの名物料理、子牛の腎臓だったらしい。

意味もわからないフランス語を偉そうに発音してオーダーした天罰が下ったと観念し、店を後にする。

たっぷりとチップを含んだお金をテーブルにおき、Merci.と礼をいって店を出たが、もはや、“R”音を響かせることも忘れていた。

外に出たら、先ほどの猛暑がさらに酷くなっていた。気温は、56℃。やはり、天罰だと悟り、アムステルダムに引き返す。

アムステルダムのディナーは、アメリカ人が集まる店で英語でハンバーガーを注文。もう、フランス語を知ったかぶりするのはやめようと心に決める。反省が天に通じたのか、その夜の熱帯夜は、少し過ごしやすかったような記憶がある。

 

6.一人ぼっちのシドニー。

 

シドニーという街は友と訪れるに限る。シドニーは明るく開放的な場所だ。空と海はとことん青い。空気も澄み切っている。シドニーは世界三大美港の一つだという。確かに美しい。

シドニーは、生涯で3回訪れた。1989年、2006年、2015年だっただろうか。あとの2回は友人と出かけた。最初は一人だった。もう28年も前だ。初めて訪れたシドニーは、当時の若い私にとっても、明るすぎた。底抜けに明るい青空と海。人々の表情もとても明るかった。

20日以上滞在した。シドニーの街を歩き廻った。おかげで今でもシドニーの街で迷子になることはあまりない。特に観光名所を廻ったわけではない。若さという体力もあった。とにかく歩いた。時折、道端のスタンドでギリシャ風のサンドイッチを頬張った。当時はギリシャ移民が多かった。

滞在し始めて数日が経った。急に寂しくなった。ホームシックではない。日本食への哀愁でもない。ただただ寂しくなった。周囲があまりにも開放的で明るく、その反動でなんだか寂しくなった。

寂しさが心に居ついてしまった。オペラハウスに行っても、ハーバーブリッジに行っても、心が動かされなくなった。夕暮れの港を見ると余計に寂しくなる。黄昏時のフェリーに乗るといよいよ悲しくなる。

寂しさを紛らわすために、さらに歩き廻った。見るもの見るものが悲しげに見えた。空は青く、陽光は降り注いでいる。しかし、私の心は晴れなかった。

この街は一人で来るものではないと妙に納得して、シドニーを後にした。

シドニーは寂しいという思い出が残った。それから17年もシドニーを訪れなかった。17年後、ある友とシドニーを再訪した。友は底抜けに明るい性格だった。笑いが絶えない旅となった。オペラハウスの前の広場で、友と私で大声で笑っていて、日本人観光客に変な目で見られた。

10日間ほど滞在した。毎日、アルコールと笑いが絶えなかった。ルナパークという小さなテーマパークがシドニー港の対岸にある。ルナパークでも友と赤ワインを飲んだ。ほろ酔い加減でアトラクションに乗り、さらに陽気になった。

シドニーは友と行くものだと合点した。

その9年後、三度めのシドニーを訪れた。この時も、また、別の友と出かけた。静かで理性的な性格の友だった。それでも冗談を言い合い、シドニー中を歩き廻った。この友は酒を飲まなかった。私だけ、ほろ酔い気分だった。散策中に夕立が降り、友も私もずぶ濡れになった。暖炉があるバーに行き、炉辺で乾かした。友はジンジャエール、私はマッカラン18年を飲みながら。

3度目のシドニーは明るく知的な1週間だった。地元の名門大学で、TEDxのプレゼンテーションを最前列で見た。オペラハウスの最前列でミュージカルも鑑賞した。留学志望者のふりをして大学訪問もしてみた。

やはり、シドニーは、気の合う友と行くものだとほくそ笑んだ。

先日、ふと、SNSで、3度目のシドニーに一緒に行った友が結婚したとの報告を見た。おめでたいことだ。早速、お祝いの言葉を送ろうとして、ふと思った。今度は、誰とシドニーに行こうか。まさか、新婚の新郎を連れ出すわけにもいくまい。11年前にシドニーを共にした友もそうそう暇ではあるまい。

唐詩選にある漢詩に「年年歳歳花相似 歳歳年年人不同」という言葉がある。年月が経っても自然や風景はそんなに変わらないが、人は変わっていくということのたとえ。シドニーはいつもそこにある。しかし、一緒に訪れる友は変わっていく。

いや、そう悲観することもないだろう。ひとりぼっちのシドニーなら、私の命がある限り、私という人間は変わらない。また、一人ぼっちのシドニーに行ってみたくなった。

 

7.忘却のサンフランシスコ。

 

サンフランシスコは思い出を貯めない。この街はかなりの回数訪れた。世界の都市の中でも一番訪れたような気がする。ところが、私の心の中の思い出にはサンフランシスコのイメージがない。この街が嫌いなのではない。大好きなはずだ。しかし、思い出が貯まっていない。

初めて私がサンフランシスコを訪れたのはいつだったろうか。実はこの記憶も定かではない。1990年代だったような気がする。特に悪い思い出があるわけではない。しかし、なかなか思い出せない。

なぜだろうとしばらく思案してみた。目を閉じて、サンフランシスコを思い浮かべようとした。突然、目の前に、早朝のサンフランシスコが浮かんでくる。市庁舎が見える。公立図書館が見える。肌寒い冷気を感じる。十数年前の記憶だ。ミレニアム云々と言っていた頃のことか。

そう言えば、十数年前の3月頃だったか、無性に旅がしたくなった。思い立ったが吉日、すぐにインターネットで飛行機とホテルを予約した。4日後にサンフランシスコに飛び立った。あてもない旅だった。飛行機の都合で、サンフランシスコには、午前7時頃到着した。ホテルに荷物をあずけ散歩に出かけた。すでにかなりの回数訪れていたので道には迷わない。

サンフランシスコの午前は涼しい。3月であればなおさらだ。肌寒い冷気を感じながら街を歩く。ちょうど通勤時間帯だった。コートを来たビジネスパーソンが多い。小一時間歩いた。ふと視線を上げる。サンフランシスコの市庁舎が目に入る。美しい建物だ。そして、その近くに公立図書館があった。図書館か。入ってみるかと思い、図書館に近づく。開館時間まであと15分ほどだ。すでに何人かの人が開館を待っている。私も列に加わる。

公立図書館の中は広々としている。膨大な蔵書数ではないが細かな配慮が行き届いた図書館だ。館内を歩き回る。ふと一冊の本を手に取る。何の本だったかは覚えていない。しかし、その本が気に入って2時間ほど読み耽ったことだけは覚えている。

この時サンフランシスコには1週間ほど滞在したはずだ。しかし、公立図書館での記憶の続きがない。図書館にいたのは確か午前中だけだったはず。その後どこに行って何をしたのか。1週間をどう過ごしたのかの記憶がない。事故にも会わず無事に帰って来たことは確かだ。それ以上の思い出がない。

確か、その前の年には2回も夏と冬にサンフランシスコを訪れた。こちらも記憶が曖昧だ。ナポリやローマ、シドニーの記憶は鮮明なのに、サンフランシスコの思い出はいつも曖昧だ。

もう一度目を瞑ってみる。静かに振り返ってみる。

霧に浮かぶゴールデンゲートブリッジ。坂道を走るケーブルカー。フィッシャーマンズワーフの賑わい。二人で歩いたマーケット通り。その人とは、それ以来、会っていない。

 

8.緊張のデモイン。

 

デモインという都市を知っているだろうか。アメリカ合衆国アイオワ州の州都だ。と言っても、そもそもアイオワ州について知らない人も多い。アイオワ州はトウモロコシの州。そして、あの名優ジョン・ウエインの故郷だ。いい方法がある。世界地図を開く。アメリカ合衆国を見つける。北アメリカ大陸にある米国領土の代替ど真ん中あたりに指を置く。その指の辺りにアイオワ州はある。

アイオワ州は広い。面積は日本の本州と同じくらい。山のない州で平原と丘陵が広がっている。全米随一の農業州だが、科学技術も発達している。人工衛星の技術などは米国でも有数とのこと。そんなアイオワ州に私は足掛け8年ほど住んだ。私が初めてアイオワ州を訪れたのは27年以上も前のことだった。

27年前、私はアイオワ州のパブリック・ハイスクールの教師となった。日本語と日本文化を教えた。州のプロジェクトでの採用だったので、州が私のボスということになる。

27年前の5月のある夕方だった。飛行機でデモイン空港に降り立つ。辺りは見渡す限り平原。広い。車でホテルに連れていかれる。夕食をどこで食べたかは記憶にない。ホテルで寝る。早朝に目が覚めた。窓から外を見る。良い天気だ。これは散歩に限る。ホテルの外に出る。涼しくて気持ちの良い朝だった。小一時間、散歩する。ホテルの周りには大したものはない。大きなMの文字が特徴的なファストフード店が見える。吸い寄せられるように入る。思わぬところでの朝食となった。

ホテルに戻る。何かの打ち合わせがあった。内容は覚えていない。その夜は州知事官邸で夕食会だという。州の仕事なので州知事官邸を表敬訪問ということか。夕刻、州知事官邸を訪ねると、ガーデン・ピクニックという形式の夕食会とか。農業州のアイオワらしく官邸の庭園で、盛大なバーベキューをするのだ。

残念なことに、州知事は州内で緊急事態が起こったとのことで官邸を離れた。州知事の代わりに州知事夫人がアイオワ州を代表してもてなしてくれた。アメリカでは州知事夫人もその州内ではその州の「ファーストレディー」と呼ばれることを知った。

日本人教員は物珍しいらしい。いろんな人が話しかけてくる。英語には自信があった。適当に話を合わせる。マスコミも来ている。インタビューをするからマイクの前に立てと言われる。アメリカのジャーナリストは、こちらがちょっと英語を話すとわかると、妥協のない英語で質問してくる。なんとかインタビューを切り抜ける。喉が渇いた。ビールを飲み干す。

ビールを飲むとトイレに行きたくなるのは万国共通。トイレを探す。建物の中に入ってみる。トイレが見つからない。州知事官邸なので勝手に歩き廻るわけにもいかない。周囲を見渡す。スーツを着た優しそうなおじさんがいる。この人ならトイレの場所を教えてくれるだろう。近づいて聞いてみる。親切に説明してくれる。でも、慣れない建物の中だ。説明ではトイレにたどり着けそうにない。勇気を出してみた。トイレの前まで連れて行ってくれるように頼んだ。その瞬間、笑顔でため息をついたように見えたが、私をトイレの前まで連れて行ってくれた。

トイレを済ませて、庭園での夕食会に戻る。アイオワ州要人のスピーチが始まる。最初はファーストレディ。次にアイオワ州の教育長官。日本流に言えば文科大臣だ。演壇に上がった上品な紳士は、なんと先ほど、私をトイレに連れて行ってくれた優しいおじさん。心臓が止まりそうになった。悪いことをしたわけではないのだからと、心の中で密かに開き直る。開き直りながらも早く夕食会を後にしたいとそわそわする。

その1年後、何かの会議で教育長官にお会いした。私が当り障りのない挨拶をすると、教育長官は微笑みながら言った。

「ミスター河野、今日はトイレは見つかりましたか?」

 

以上,8記事をここに転載しておきます。

 

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