教育への熱い想い、変わらぬ想い、自分らしさの瞬間を振り返る、そして、そうたに感謝!!

旧ブログ記事

教採パフォーマンス・アドバイザーをしていただいているRyoさんが、昨日、次のようなツイートをしていました。

 

 

「自分が1番自分らしいと
感じる瞬間を少し思い出して下さい。

なぜその時が
自分らしいと感じましたか?」

 

 

一瞬、この言葉に目が釘付けになりました。

 

私(河野)自身が一番自分らしいと感じる瞬間を思い出してみようとしました。

 

そして、なぜ、その時が自分らしいのか、考えてみました。

 

 

 

 

この振り返りには、実は、伏線がありました。

 

先週の金曜日、福山校での面接講座が終わったあと、私は、一人で、近くのちょっとお洒落な料理屋さんに行きました。

 

すると、そこには、伝説の教え子(微笑)、そうたがいました。

 

そうたは、お友達と一緒でしたが、お友達も教育関係者ということで、すぐ隣のテーブル席に座ることにして、3人で楽しく話しながら、お食事をしました。

 

 

そうたは、あいかわらず、輝いていました。

 

そうたは、明るく、屈託のない表情で、楽しく、話しかけてきます。

 

 

そんな、そうたに言われました。

 

 

「僕が大学1年生のときに、教師になろうとはっきりと決めたのは、河野先生のブログ記事(当時は、ツイッターとフェイスブックの記事でした)を読んだからです。」

 

 

そう言えば、そうたは、以前もそんなことを言ってくれた記憶があります。

 

そうたは続けます。

 

 

「ここにいる友人にも、この間、そのブログ記事を送って、読んでもらったんですよ。」

 

 

そのお友達も、私に、にこやかにこう言ってくれました。

 

 

「私も読ませていただき、勉強になりました。」

 

 

もう、7年近く前に書いた記事が、食事の席でこんなに話題になるなんて、思ってもいませんでした。

 

そういわれてみれば、この記事を読んで、高校地歴や中学校社会の教師になろうと思ったという人も何人かいたようです。

 

この記事は、私も気に入っていて、ブログでも、何度かリプレイしたことがあります。

 

 

もう一度、読み返してみました。

 

この記事を書いたときの自分を思い出しました。

 

Ryoさんが言うように、「自分らしい」自分がいたような気がします。

 

 

その記事をここに載せてみますね。

 

 

【記事引用開始】

 

 

記事タイトル: 「教育は何のためにあるの?」

 

「教育は何のためにあるの?」といっても、今日は教員採用試験モードから離れてお話しますね。離れるといっても、教育学者としてお話しますから、教育論を語ることには変わりありませんし、教採に向けての教育マインドを創り上げるためには参考になると思います。

教育は何のためにするのか。今日は教育基本法第1条や第2条のお話はしません。お話は、「テルマエ・ロマエ」の時代に遡ります。今から2,000年ほど前の古代ローマ帝国を少し見つめてみましょう。

私は、子どもの頃からローマ帝国が大好きで多くの本を読んできました。高校生のころからラテン語を学び、ローマは何度となく訪れています。塩野七生さんの『ローマ人の物語』もハードカバーで15冊(文庫なら43冊)読破しました。その他数百冊は読んだだろうと思います。

欧米では、現在でも人々のあこがれの対象となっている古代ローマについて、これまで日本ではあまり多くの人が注目していませんでしたが、昨今の「テルマエ・ロマエ」の大人気ぶりで、古代ローマについてある程度の知識を持っている日本人が増えてきました。

さあ、それでは、古代ローマにタイムスリップしてみましょう!! 古代ローマの都市部は恐らく現在の先進国とほぼ同水準の文明・文化を謳歌していました。もちろん、奴隷はいました。農村部は貧しかったかもしれません。でも、ローマやポンペイといった都市は帝国共通の水準で反映していました。

例をあげてみましょう。まずは、『テルマエ・ロマエ』に出てくるような浴場システムです。温水浴、冷水浴、サウナ、マッサージ、図書館、レストラン、バーなどを備えた、今ならばスーパー銭湯と見まがうような浴場が帝国内の各都市に整備されていました。ローマのカラカラ浴場はその最高峰でしょう。

一度に数百人が風呂に入り、ワインを飲み、図書館で本を読み、サロンで政治談議をする空間がそこにはありました。それも自由市民には平等に解放されていました。

お風呂があるわけですから、当然、上水道システムと下水道システムは完備されていました。ローマや帝国内の各都市は今から見てもほぼ完ぺきな上水道システムがあり、市民はみな水道から新鮮で清潔な水を供給されていました。トイレは水洗でした。

コロッセオ(コロセウム)は5万人を収容する大競技場です。コロッセオが準ドームスタジアムで全天候型であったことはよく知られています。5万人分の各席には座席番号があり、指定席券が発行されていました。5万人の出入りのために88の出入り口があり、まさに現在のドーム球場のようでした。

さらにチルコ・マッシモ(大競技場)は、15万人収容の大競技場で、戦車競技などが盛大に行われていました。現在の日本にあるどの競技場よりも大規模なものでした。

ローマの道路網は、全て舗装されており、その舗装も地下2メートル近くまで掘り下げてから舗装するという徹底したものでした。

ローマ建築の優美さは今でも人々を魅了します。パンテオンの美しさ、水道橋の優美さ、フォロ・ロマーノの洗練された姿はまさにロマンチック(ローマ風)と言えるでしょう。

古代ローマやポンペイなどの帝国内の各都市になくて、現在の日本の都市にあるのは、電気とコンピューターと携帯電話だけだと言ってもあまり言い過ぎではないでしょう。それくらいローマの科学技術は市民生活を豊かにしていました。

こういうと古代中国や日本でも古代建築などに素晴らしいものがあったという人もいるでしょう。素晴らしいものがあったのは事実です。でも、それは、一般の市民の生活を直接豊かにするものではありませんでした。ローマの文明は市民全員のための生活快適文化でした。

水は上水道から飲む、トイレは水洗、風呂はスーパー銭湯、道路は舗装、娯楽は数万人収容のスタジアムで競技観戦、バーもレストランも図書館もある、それが(2,000年前の)ローマ市民の日常でした。

さあ、そろそろ教育論に入りますよ。ローマの歴史を振り返ることが今日のお話の目的ではありません。教育について語るのが目的です。教育は何のためにあるか、です。 さあ、ここで衝撃の質問です。

今から2,000年前、21世紀の私たちの生活にも全くひけをとらなかったローマの都市文明の技術は、いわゆる暗黒の中世の間、どこに消えてしまったのでしょうか?

いわゆる中世の時代、ヨーロッパには、上水道はほとんどありませんでした。下水道もほぼ皆無でしした。フランス革命の時代(1780年代)のパリでさえ、トイレの排泄物は窓から通りにぶちまけていたそうです。

ヨーロッパで一般の人々が再び暖かいお湯の風呂に入り始めたのは、19世紀頃になってからだと言われています。ローマのような娯楽施設もあまりありませんでした。どこに消えてしまったのでしょうか?

確かに、キリスト教の教えの影響もあったでしょう。キリスト教が娯楽を嫌い、神にのみ仕えることを推奨したという事情もあったでしょう。でも、ローマのあの高度な文明はどこにいってしまったのでしょうか。

ここでやっと本論に突入です。ローマの高い文明や技術が突然消えてしまったのは、その文明や技術を次世代に伝えるという教育の営みが途絶えてしまったからです。

キリスト教やゲルマン民族などの流入というのは、文明や技術を次世代に伝える教育の断絶が起こった原因に過ぎません。ローマの高い文明がほぼ同程度に人々に享受されはじめるのは20世紀になってからと言われています。ローマの高い文明は1500年間停滞してしまったのです。断絶していました。

知識や技術は、それを次世代に伝えなければ失われてしまいます。一度失われた知識や技術はあらたに発見され、発達するまで何百年、何千年と待たなければなりません。知識や技術だけではありません。教育の断絶で忘れられた文化や言語を復活させるのは容易ではありません。

あのピラミッドやスフィンクスを作った古代エジプトのヒエログリフは、紀元後数世紀以降、読み方すら忘れられ、19世紀にシャンポリオンが解読するまで、誰も読むことができませんでした。古代エジプトの文明・文化は教育の断絶で封印されてしまったのです。

教育はただ単に子どもを育てるためにあるのではありません。今、私たちが享受している文化・文明を次の世代に伝え、今の豊かさと幸せを確実に次世代に、そして、その次の世代に伝えるためにも存在しています。教育がなければ、私たちの文明は100年くらいで完全に滅びてしまいます。

今、私たちが完全に教育をやめれば、100年後には、だれもコンピューターを作れなくなるでしょう。スマホもテレビもインターネットもコンビニもない生活になるでしょう。飛行機も自動車も、いや、自転車ですら作れなくなっているでしょう。教育は、文明と文化と人類の知恵を伝える生命線です。

教育は未来を創るだけではありません。過去を未来に繋ぎ、現在の幸せと繁栄を未来にも受け継いでいくための唯一の方法なのです。教育なしには未来はありませんし、それどころか、過去も現在も忘れられてしまうのです。教育の断絶は、時間を、そして、歴史を消してしまいます。

もっと衝撃的な喩えをしましょう。人間は進化する方法を遺伝子から教育に切り替えたと言ってもいいかもしれません。

生物の進化の過程を振り返ってみると、海に生まれた生物が陸地に上がるまで何十億年もかかりました。陸に上がった生物が空を飛ぶまで何億年もかかりました。キリン(の祖先)が高いところにあるエサがとれるように首を長くするのにも数千万年がかかりました。

進化を遺伝子に委ねると目的を達成するのに気の遠くなるような年月がかかります。でも、人間は空を飛びたいと思ってから数百年で飛行機を発明しました。海に潜りたいと思ってからも数百年で潜水艦を発明しました。

宇宙を旅して月に行きたいと真剣に思ってから100年ほどで、月面に到着しました。今では数十年のオーダーでどんどん発明がなされています。

これらの発明を可能にし、その発明を使い続けることができるのは全て教育のたまものです。私たちがエジソンの発明の恩恵を今でも享受できるのは、エジソンの時代から今まで教育が脈々と続いているからです。教育が止まってしまえば、それまでです。また、エジソンの再登場を待つ必要があります。

遺伝子に進化を委ねるとは、寒くなれば次第に毛深くなり自分の皮膚としての毛皮をまとうということです。でも、現在、人間は、暖房器具を発明し、進歩させることで、何百万年もかけて自分の体を変える必要はありません。ほんの数年で大きな進化を科学の力で成し遂げることができます。

これは便利なようで、危険な側面もあります。魚の子は教育を受けなくても泳げます。鳥の子は教育を受けなくても飛べるようになります。キリンの子は育てば何メートルもの首を持てます。でも、人間は違います。教わらなければ、パソコンは作れません。学ばなければ自動車は作れません。

現在、飛んでいる鳥が自然に飛べなくなるには数百万年が必要です。キリンの首が再び短くなるにも数百万年以上が必要でしょう。でも、人間が飛行機のつくり方を忘れるには、数十年間、教育が途絶えるだけで可能なのです。数十年の教育の不在で、人間は文明のほぼ全てを失います。

古代ローマの文明が断絶したのは、この教育の断絶が主原因でした。教育の断絶を引き起こしたのは、ゲルマン人の侵入だったかもしれませんし、キリスト教の隆盛だったかもしれません。しかし、文明と技術、知恵の断絶を引き起こしたのは、教育の不在により、知識・技術の世代間伝達が消滅したからです。

古代ローマの教訓とは、大帝国の崩壊のストーリーではありません。学ぶべき教訓は、教育が失われると歴史が止まる、文明が止まる、人類の英知が1,000年以上も忘れ去られるということです。

繰り返しますが、数十年間の教育の不在が1,000年以上の文明の断絶をもたらすことがあるのです。教育の不在で人類の英知を次世代に伝えなければ、これまでの苦労はそこで失われてしまいます。教育はそれほどの大きな責任を担っています。

教師を目指している皆さん、皆さんが担うことになる教育という仕事は、目の前の子どもを成長させることだけではありません。そのことを通じて、人類が数千年にわたって築き上げた文明を次世代に、未来に伝え続ける責任を果たすことなのです。

教育が止まれば、人類の進化が止まるだけでなく、人類の財産が全て失われます。人間にとって、教育はDNAと同じくらい大事なものです。教育なしに人間の社会は築けません。教育は過去からの叡智という遺産相続であると同時に、未来の設計図でもあります。

DNAが失われれば生物としての人間は消滅します。教育が失われれば社会的存在としての人間文明は失われます。教師の存在がどれほど重要なものかがお分かりいただけると思います。

熱く語ってしまいました(微笑)。実は、この話は、今から10年ほど前に、私が初めて教員採用試験対策講座を担当した時の「講座開き」でお話ししたものでした。10年前に始まった私の教員採用試験対策講座はこのお話からスタートしたのでした。(10年前には、『テルマエ・ロマエ』に関するお話の部分は、ありませんでしたが。。。)

10年経った現在も、私はこのお話を時々、受講生に話すことがあります。教育がなぜ大切かを人類という大きな存在においても気づいて欲しいからです。今日のお話のテーマである「教育は何のためにあるの?」を考えてもらうための刺激剤としています。

教育は何のためにあるの? 私なら次のように答えたいですね。 子どものため。未来のため。過去のため。人類の歴史のため。人類の存在理由のため。 まあ、これでは教採の面接の答えにはならないでしょう(笑)。

でも、教育は人類にとって、とてつもなく大きなものであることを自覚していたいですね。

私はいつも「教育とは何か?」、「教師とは何をする職業か?」を問い続けていきたいと思っています。そして、できれば、私の受講生の皆さんにも、この問いに対して、自分なりの考えを抱き続けて欲しいと思っています。

受験技術だけで教採に合格しても、教育への想いや情熱がなければ、子どものためになりません。人類のためになりません。随分と偉そうなことを言うようですが、想いなくして教壇に立つ教師を私は想像したくありません。少なくとも、私は常に熱い想いを持ち続けようと心に誓っています。

確かに、教採という競争に勝つためには受験技術は必要です。それは厳然とした事実です。でも、何のために競争に勝つのかの志が必要です。競争に勝つというのは、出発点に立つことに過ぎません。重要なのはなぜ、何のために出発点に立つのかを自分なりに分かっておくことです。

教師として歩きながら、走りながら考えることもできますが、大まかな目的や目標は必要だと思います。もし、何の想いもなく、教壇に立って試行錯誤だけをしているというのであれば、その時、教わる子どもたちが気の毒です。子どもは教師が成長するための道具ではありません。

もちろん、教師も未熟な段階から段々と成長します。最初からベテランではありません。でも、成長していくということを、今は何もなくて良い、想いもなくても良いということにすり替えてはいけません。何かがなければ、何らかの想いがなければ、教師として教壇に立ち子どもに向き合うことはできません。

この点に関しては、私はどうしても譲れないのです。子どものためにも、社会のためにも、人類の未来のためにも。

 

 

【記事引用終了】

 

 

読み返してみて、とても懐かしく感じました。

 

この記事を書いたころの私を思い出しました。

 

Ryoさんが言うように、そこには、「自分が1番自分らしいと感じる瞬間」がありました。

 

 

本当に教育について考え、教育の輝きを、誰かに伝えたいという熱い想いを持った自分がそこにはいました。

 

その熱い想いがあったからこそ、私は、教員採用試験対策講座を主催し始め、主催し続けているのだとあらためて実感しました。

 

 

このブログ記事のタイトルは、「教育は何のためにあるの?」でしたが、いま再び読み返してみると、私自身には、この記事のタイトルがあたかも、「なぜ私は教えることを続けるの?」と聞こえてきます。

 

私が教えることを続けるのも、まさに、この記事に書いたような私の想いが心の中にあるからでしょう。

 

 

そうたには、いつも教えられています。

 

そうた、本当にありがとう。

 

そうたのおかげで、また、一つ大切なことを思い出し、気持ちを新たにしました。

 

 

お礼に、そうたをローマに連れて行ってあげようかなあ。。。(笑)

 

 

まずい! 滅多なことを言ってはいけなかった。。。

 

そうたが、今日のこのブログ記事を読んで、

 

 

「はい。ローマ行きますよ!いつ行きますか?飛行機のチケット、すぐに買ってくださいよ!」

 

 

と屈託のない笑いを見せながら、叫んでいる姿が目に浮かぶ。。。

 

 

 

 

では、また明日!!

 

 

 

 

教採塾

河野正夫

 

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