科学・哲学は、疑うことからスタートします。
このことは極めて重要なことです。
学問のスタート地点は疑ってみることです。
ものすごく簡単に言うと、
空はどうして青いのだろう?
夕焼けはどうして赤いのだろう?
平等って何だろう?
正義とは何だろう?
地球は平って言われているけど、本当に地球は平なんだろうか?
宇宙の中心は、本当に地球何だろうか?
というような疑い・疑問・疑念です。
常識であったり、抽象語であったり、ドグマであったりするものを疑うということが、学問のスタート地点です。
空が青い・夕焼けが赤いのは常識だからといって、何も考えなければ科学は生まれません。
常識に疑問を持つことがまずは重要です。
平等とか正義とかという抽象語は、語る人によって主観的に語られます。人によって、平等や正義のとらえ方は違います。
こういう時に、そもそも平等とは?正義とは?と考えることが、学問のスタート地点です。
地球が平だとか、宇宙の中心は地球のというのは、数百年前まではドグマ、つまりは、絶対的な(強制された)真理でした。疑うことを許されない真理でした。
でも、このドグマを疑ったのが、コロンブスであったり、コペルニクスであったり、ガリレオであったり、その他、多くの科学者たちでした。
常に、常識を疑う、抽象的に論じられていることを疑う、ドグマを疑うということが、思考の出発点であり、学問のスタート地点です。
もう少し、現在の教育に結び付けて話してみましょう。
新しい学習指導要領の改訂により、いわゆるアクティブ・ラーニングが「主体的・対話的で深い学び」という言葉で、学校教育に本格的に導入されることになりました。
アクティブ・ラーニングには、素晴らしいところもたくさんありますので、大いに実践され、成果を上げて欲しいと願っています。
しかし、誰もがアクティブ・ラーニングと言っているいまだからこそ、アクティブ・ラーニングを少し疑ってみるということも大切なのです。
今まさに、アクティブ・ラーニングは「常識」となり、また、「主体的」、「対話的」、「深い」という抽象語が人によって主観的に語られています。
また、アクティブ・ラーニングを実践することが当然で、アクティブ・ラーニングに反対することは許されないという「ドグマ」的な言説もちらほら見えます。
そして、一部の教育産業は、教育サービスや教育材を売りたいがために、こういった常識や抽象語やドグマに飛びつきます。
教育ビジネスの成功のためには、それも一つの方法なのかもしれません。
しかし、学問の観点から言うと、常に、疑いを持ち、疑問を持ち、疑念を忘れないことが大切です。
私は、数年前から、アクティブ・ラーニングの興味深さを語っていました。
まだ、アクティブ・ラーニングが「常識」にならず、「抽象語」が飛び交わず、「ドグマ」にならなかった頃は、アクティブ・ラーニングを是非、試してみようと言っていました。
このブログだけを振り返ってみても、2年以上も前の2015年8月29日のブログ記事 「アクティブ・ラーニングを教採の勉強に!!」 で、アクティブ・ラーニングを教員採用試験のための勉強にも試してみることをお奨めしました。
アクティブ・ラーニングがまだ人口に膾炙していないときは、私はどちらかというと、アクティブ・ラーニングをお奨めして、試してみると面白いかもと申し上げていました。
そして、年月が経ち、今や、アクティブ・ラーニングは、「常識」となり「ドグマ」となりました。
すべての学校教育で取り入れられるべきものとなりました。少なくとも、新しい学習指導要領が改訂されるまでは。
「常識」となり、「ドグマ」となれば、それを疑ってみることが学問です。
疑うことは「反対すること」、「悪口を言うこと」ではありません。
批判精神・批評精神をもって、対象を冷静に分析すること、異なる多様な視点で見直してみることです。
その一環として、2週間ほど前、ナポリ滞在中に、 「学び方を学ぶことは重要ですが、特定の教授法に固執することに大きなメリットはありませんよね!!」 というブログ記事を書き、アクティブ・ラーニングを絶対視することを戒める文章を書きました。
これが学問の姿だと考えています。
これが学問が進歩・発展するプロセスだと考えています。
「常識」や「ドグマ」になるまでは、どちらかというと注目し、試してみるとことを奨めるが、「常識」や「ドグマ」になると、どちらかというと疑念を持ち、新たな視点で見つめ直してみる。
これができないと、学問はできません。
でも、「常識」や「ドグマ」になると、それを信奉する人にとっては、疑念を言葉にする人は、許せない存在になります。
アクティブ・ラーニングもまた、教育・教授法・学習法の歴史の中での一つの考え方に過ぎません。
今は、「常識」や「ドグマ」になっていても、20年後、30年後、50年後にどうなっているかはわかりません。
アクティブ・ラーニングは、クリエイティブな考え方で、今の日本の学校教育には相当程度、必要なものだと私も考えています。
でも、アクティブ・ラーニングもまた、一つの考え方であることを忘れてはなりません。
アクティブ・ラーニングもまた、一つの教え方、学び方であることを忘れてはいけません、
こう言うと、「常識」や「ドグマ」にとらわれている人が、アクティブ・ラーニングは、「特定の教授法・学習法ではない!」と反論する人がいるようです。
反論はご自由です。
反論もまた学問の正常な姿です。
確かに、アクティブ・ラーニングは、これまで提唱され、実践されてきた多くの教授法や学習法をクリエイティブに包括し、活用しながら、学びを進めるものとなっています。
アクティブ・ラーニングのアプローチは、単なるコンパクトな教授法・学習法というよりも、学ぶための戦略であり、学ぶためのアプローチであるように語られています。
その意味では、アクティブ・ラーニングは、単なるグループ・ディスカッションとかプレゼンテーションという学習技法のひとつではありません。
しかしながら、現在、アクティブ・ラーニングが語られるときに、引き合いに出されることが多い、「知識伝授型」の学習と対比されることを見ても、アクティブ・ラーニングもまた、ひとつの学習の形態であることは間違いありません。
日本語で、教授法とか学習法というと、ニュアンスが狭くなりすぎるよのかもしれませんが、”a form of learning” とか “a method of learning” といった英語での一般的な意味合いで言えば、アクティブ・ラーニングもまた、学びの一つの形態、あるいは、学びの一つの方法ということになります。
「常識」や「ドグマ」にとらわれている人の常套句は、「その考えは違う」、「そいつは勘違いをしている」、「そいつの考えは許せない」であるようです。
「違う」というためには、明白な根拠と証拠が必要であり、反証が必要です。おそらく学習の形態について、「それは違う」というのは難しいと思われます。
「勘違いをしている」というのは、ほとんどの場合、抽象語の解釈の違いに起因します。抽象語の解釈は、人それぞれです。むしろ、「勘違い」は、「視点の違い」として捉えるべきでしょう。
「視点の違い」があるから興味深いではなく、「勘違い」と断じてしまうのは、自分の考えが「常識」で「ドグマ」で保証されているから否定され得ないものだと信じているからです。「間違っている」と反証するのでない限り、「勘違い」と断じるのは、少なくとも学問的な立場ではないようですね。
「許せない」というのは、単なる主観的な感情で、学問や教育とは関係ありません。
私自身は、常に、アーリーアダプターであり、クリティックでありたいと願っています。
アーリーアダプターとは、世間でまだ「常識」にも「ドグマ」にもなっていないときに、まずは実践してみようとする態度を持つ人のことです。
クリティックとは、たとえ、「常識」となり、「ドグマ」になった後でも、そのことに疑念を持ち、疑問を感じ、新しい別の視点で見直す態度を持つ人のことです。
「常識」と「ドグマ」を振り回す人は、その時は、正義のように見えても、歴史の流れの中で、滑稽に映るものです。
数十年前の学習指導要領は滑稽かもしれませんし、数百年前の法令は滑稽かもしれません。
ガリレオを嘲笑した当時の「常識」と「ドグマ」に囚われていた人々は、現代人には滑稽に映ります。
教採塾の講座が、いえ、言い換えましょう、河野正夫のレクチャーが面白いのは、河野は、常にアーリーアダプターの視点とクリティックの視点を持って、講義をし、演習を行います。
河野の講座を受講した人ならよく知っています。
河野は、教育基本法をかなりディスります。
「ディスる」という表現は低俗かもしれませんが、まさに、ディスります。
学習指導要領の書かれ方も、楽しく、興味深く、ディスります。
否定しているのでも、反対しているのでもありません。
法的拘束力があり、守らなければいけないものだとしても、多様な視点で見れば滑稽なところもあるので、そこを指摘しながら、レクチャーします。
だから、受講者も教育基本法や学習指導要領をよりよく理解します。
ただ単に、「これは重要だから覚えなさい!」、「これを実践することが良い教師になることだ!」ではダメなんですよね。
教育基本法や学習指導要領を遵守することとは別に、学問的な多様な視点でそれらを見て、時にはディスってみることは、アカデミックにはとても健全なことです。
もちろん、教採の面接では言いませんよ!(笑)
教採の面接では言いませんが、学習対象を客観視し、分析し、批判することは、学問的には極めて健全なことです。
教採塾ではこれをやるから、受講者の理解も記憶も活用の力も向上します。
教採塾は、「常識」や「ドグマ」を大切だから覚えろとは言いません、
「常識」や「ドグマ」を楽しく、興味深く見つめ直しながら、理解し、記憶し、活用する力を付けます。
それが、河野正夫の指導の哲学ですから。
そして、それが、教員採用試験の合格にも確実につながります。
「常識」や「ドグマ」をディスって楽しんでいるからこそ、教採の面接や小論文で、何を言えばいいのか、何を言ってはいけないのかが、受講生たちは確実に知っています。
そして、今の「常識」や「ドグマ」は、時代の流れとともに、変わっていくことも、受講生たちは知っています。
だからこそ、時代に流れに対応できる教師になることができます。
こういう楽しい学び方が好きな人が、教採塾に来てくださればいいなと、常に願っています!!
では、また明日!!
河野正夫
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